2016年10月19日水曜日

つまんないなあ~♪

暖かい日差しで、午睡も爆睡パターン。

寝入っているうちに、BGМにしていた番組が終わっていた。
子守歌で聴く程度で十分なコンテンツだったので、そのまま次に移る。

音楽や演劇のお好みは、何度視聴してもいいものだが、それ以外は飽きがくる。
あの論者なら、こういう話題なら、きっとこういうだろうと読めてしまうと、新奇さがなくなり、もういいかとなってしまう。
これだけ情報に溢れると、よほど宗教的レベルのファンでもいない限り、言説や評論も、飽食の時代の定番末路、残飯処理で打ち捨てられるという運命を避けられない。

これは、もちろん他人様のことだけでなく、自分に当てはまる。
何か検討する際に、自分ならきっとこう考えて、こう感じて、こんな風にしようとするんだろうなあ、となる。
いま、老若男女に瀰漫する倦怠感は、こういうところから生じる日常性を基に湧いてくるものかもしれない。

だからどうしなければと思うわけでもないが、対症療法としてはいくつかはある。

まず、身体的刺激がある。
千日業ではないが、自分にとって少しきつい負荷をかければ、感じとる世界は大きく変わる。
理屈より、身体の動かし方ひとつで、マンネリズムはいくばくか壊れる。

次は、少しでも新奇に思うことのできる河岸をテイスティングして、飽きたものを次々と捨て移ることである。
情報はオーバーフローしているのだから、お付き合いしてチンケと感じたら、次に移ればいい。
放恣さでトラブルの生じない領域では、現代社会では移り気の自由度は高い。

更には、居直りもありだ。
すでに、仕事も一生モノもレアになり、相手様もスクエアな執着を喜んでくれるわけでない。
上手にアドホックさを確保しつつ、しっかりカプリシャスに、誠実に労作するということも、真善美に適合的になってきてはいる。
ならば、時代変化を自家薬篭中の秘薬として、自由闊達にやればいい。

映画「The Bucket List(邦題:最高の人生の見つけ方)」ではないが、実際の臨終でも「やはり、やりたいと思ったことをやっておけばよかった」というのが、大方の悔恨の言葉らしいから、まずは四の五の逡巡せずにlet it beが一番なんだろう。
ボブディランも、しっかり放置プレイを楽しんでいるのだろうか。

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