2015年8月31日月曜日

リトマス試験紙

先に己の導きの糸などと語ったが、ひとはrandomにさ迷うゆえ導きの糸を持ちづらく、持っても足にからまったりする。
犬も歩けば棒に当たる。
何度当たってもバカは死んでも治らないってこともある。

そういうことで自省は大事だが、まずはいつもの人間動物園。
Twitterはあまりfollowもせず、followされることも指向せずやっていた。
ところが、最近話題になっていることどもを寄せ集めているボタンを知る。
これを押すと実に面白い。

例えば、今回の国会前デモ。
党派性、支持者の論理感情プロファイリング。
論理に弱い学者、脳の使い方を間違えている脳科学者、自分のお世話になっているresourceは知らんぷりの芸術家、大学生になっても小学生の賢い奴に数段劣る大学生。
政治の本来なすべきことどもを放擲してプロ市民と野合するかの野党政治家。

これは安保法制賛成派の青年らも同じで、全共闘時代の新左翼の立看字体も知らずに中国勢力ガーと叫んでいる。
彼らはいま善光寺の押し掛けのような モチーフは持たない。
あえてagentを入れれば、パクられれば工作が皆ばれる。

ちなみに、デモの集団には公安も入れば、日本人の工作員も入ってはいて、若干の暗数にはなれど、地積からみれば十万も入らない。
地方都市の人口が、あの程度の面積には無理。
前に数千人、一万足らず、周辺入れてせいぜい二万前後、三万いくかいかないか。
警察は実数把握してないと警備できないから、ちょいと多め程度に見積もる。

こういう目で見ると、橋下復帰についての声も面白い。
デモでくるくるパーな主張をしている連中が、橋下氏の動きはリアリズム、リアルポリティクスでよくみている。
人は渦中にいないと割りに素面の目を保てるということである。

さて最後に自省。
自分自身も鏡やリトマス試験紙でよくチェックするのが大事なのだが、なかなか容易でない。
やはり肝は自分自身についてである。

導きの糸

昔、言えないよう~♪とネットでhummingしたら、黙っとれと悪罵恫喝されたことがあった。
有名政治家の係累の厨坊professorであった。
政治家はタカビーとの評判だったが、甥くらいの歳の彼も政治的立場は逆だが、厨坊的にタカビー
DNAや生育歴でそうなるのだろう。

某有名大学の教養学部のおぢ。
これもタカビー。
ネットで少しやり取りしたが、何でも知った風に言い切る。
その割には、無知蒙昧。
己の所属している場所の歴史にも疎い。
中沢問題で、西部氏や桝添氏が脱藩した経緯など興味ある人間らはよく耳にする話だが、こういう欠落前提の口舌はネットでも喰えぬとの評がよく聞こえてくる。

割にいい分析もするが、ネットでの批判批評をゴキブリめ!と言いつつblockする自称学者の元テレビ屋。
ネットだけでなく、下界でもしょうもないフレイミング無駄ガネを使っているのをみると、なかなかいいねと想うコンテンツでも、こいつの言うことだからと眉唾になる。

ちょいと有名人でもこうしてアラは目立つが、それはわれわれのような有象無象でも同じ。

あれだけ物事を考えてる地頭はありそうなのになぜ?がほとんど。

左巻きすぎる、右巻きすぎる、上すぎる、下すぎる、未来志向が過ぎて後ろがみえない、後ろばかりみて前を向けない。
欲得のポートフォリオばかりで平板。

雑食貪欲はいいが、アフラトキシン、副作用合併症怖くないの?

みんな部分部分で自分のことであり、まさにいえないよ~♪

また若いから、免れてきたからきっとそうなのね、なんてこともわかる。
まあ、年取ったら嫌でも悟る。
悟らなきゃ、どうぞ猪突猛進でいってあれ。

なんて人間動物園やっていてもせんないこと。
導きの糸は、実はそう良質でない。
人様に述べたように、己のDNAも生育歴もクソみたいなもので、それも認知症に突入する前からボロが出まくり。
そうなると、最後は八百万の信心か、どうなとなれの開き直り。
最近は開き直りが足りないかと、自己エンカレッジに励む。

2015年8月30日日曜日

結んで開いて~♪

スマホのファックスアプリのDLに再チャレンジして、固定電話にファックスしてみると、ちゃんと届く。
ファックス機能も生きていた。
されど到来するのは、デルのしつこい売り込みその他やめてよもうって感じのものがほとんどで、これからの作業はそういうファックスの受信拒否をマメに登録すること。

このようなスラプスティックを経て、情報の、生き方の、結んで開いてを想う。
結論的にいうと、とことん冗長性を排して自己沈潜すると狭きに失し、逆に異業種交流会での名刺交換的に無差別フロー重視は自分の自分に対する時間泥棒に陥る。

思うは、SNS、ネット検索、新聞雑誌、文物流言蜚語に至るまで。
あまり深入りするというか、思い入れるのは危ない。
量的拡大は、対処不能だけでなく、スパム場面の混入登場確率も上がる。
質的には、少数精鋭だけでは向上しないが、情報交換というのは、こういう場でなくて、真摯にお付き合いする関係から生まれる。
そういう関係は、今回のように電話が途絶しようと、ファックスが途絶しようと、手紙もあれば、伝言も可能。
来ていただかない方が嬉しい税金、公共料金の請求は必ず到来し、何か可罰的な違法行為に及べば官権が押し寄せて来る。
「君の名は」が銭湯を空にしたのは、恋人同士がちょいとした差で逢えない、成就しないロマンチックゆえである。
スマホは待ち合わせに便利だが、ラインの拘束衣は不自由で、結んで開く要締を自分なりに構築できないと生きにくい。

てなことを思いつつ、どうでもいいわと思いつつSNSもいつも手入れを心がける。
その際はネットの向こうの相手様のことを想うわけだが、実はそれは己の鏡。
結局自分の姿態を反射させている作業なのである。

2015年8月29日土曜日

どっこいどっこい生きていた。

承前。
ファックス機の不調は、電話線の劣化か、ファックス機自身の劣化故障かというところまでいったので、近くのヤマダで電話線を購入、ダメなら駅前のヨドバシまで出向く算段にした。
ヤマダでは、線の購入だけでなく、マシンの売り出しの様子も下見。
昔よりspeckが向上して安価になっているが、PCなどと同じく旧いspeckの方が使い勝手がいいなんてことはいくらでもある。

帰って電話線をつけかえると、ちゃんと呼び出し音がなり、留守録再生もできる。
あとはファックス機能の健在を確認するだけだが、スマホアプリからのファックス送信はうまくいかず、コンビニからの送信は非通知拒否で失敗。
いまはファックスよりもmailやmail文書添付で何の不自由もないから、放置中。

月末の出費の痛い時期に嬉しい誤算。
スパムファックスの来ない安楽も覚え、これからはしつこいのはみんな受信拒否にしちゃおう。

形あるもの皆滅ぶ

電話機がおかしいの気付く。
着信が途絶えた。
受話器を挙げると発信音が聞こえる。
お盆のこととてセールスも売り込みファックスもないのだろうと気にしなかった。
盆明けもかわらずで、スマホからコールしてもならない。
キャリアの相談窓口とああでもないこうでもないと検証作業やってみると、端末装置まではちゃんとひかりは来ている。
あとは電話線の劣化か電話機の基板劣化。
ネットで調べてみたら、電話機のおシャカも多い。
痛いが緊急にrecoverさせないといけない。
休みもすることがあってめでたい、徒然草の牛の焼死じゃあないが、電話機でよかった、持ち主じゃなくてと一応言ってみる。

理屈で色即是空と唱えてもダメ、ネットで他人様の故障を読んでも所詮他人事。
自分で経験してみるとわかる。

はなしをあえて曲げて敷衍すると、医者の世間狭さ。
ネット知己の某青年ドクター。
学生の頃から知っている。
真面目な篤学派で、東洋医学も勉強して鍼灸なんぞにまで興味を持っている。
ところが、医者になってかなり経つと、どうも医者のカルト性セクト性に毒されるのか、それとも世間の本音建前などと触れる余裕がなくなるのか、狭く平板の粗がみえる。
昨日もそれは純医学的問題でなく、行政問題だよと示唆しても、自分たちのバイアスはみえないよう。
特に働き盛りは加速度的にそうなっていく。
これも年取れば変わったりもする。
ネット知己の某ドクターなど、自身が闘病されてずいぶん質感が変わった。
立場変われば、酸いも甘いも味わえる。
味あわされる。
puddingは食べてみないとわからないという哲学者の言葉どおり。

ということで、今日は自分が滅ばないように修復工事がmission。

2015年8月28日金曜日

自然の妙

ほんの少しまえまで暑い熱いと叫んでいたのに、いまやもう朝夕は肌寒い。
もうすぐ寒い凍れるとぼやく日がくるのだ。

汗も、不感蒸泄も、ずいぶんと減ったのだろう、ペットボトルなんぞもダウンサイジングした。
心身は特に意識せずとも自然に適応行動をとるようになっている。
春ほどの揺らめきの季節ではないが、melancholyとまではいかなくとも、ほんの少しだけ心模様もおセンチになる。
これも悪いことではない。
盛夏のころ、厳寒のころのように、苛酷な外界にtensionあげ続けると疲弊する。
春や秋はその寛解作用があるから、心も蠢くことができるのだろう。

別に暑いまま、寒いままの地でも、人は生きているゆえ、それならそれでもかまわないのだろうが、この四季のサイクルがわれらの風土を作っているような気はする。

あえていえば冗長性の贅沢。
ぎりぎり、モノトーンでも、minimumは満たせても、それだけでは不便、色気なし、うまくない。
そこに彩りの遷移や周期が入り、多様な味わいを許される。
その変化への適応が、そのまま生のリハビリテーションになる。
自然の享受だけでなく、SNSなんぞでも各位、まるでコンパチでないかのarticleに、いいねなどしているのを見ると、そういう風土なんだろうと感じる。

誉めればこうなるのだが、先般の灼熱の如く、余裕のない現実もある。
文明の利器で人工的に適当な環境を確保しようとすることが、更なる灼熱を生んだりする悪循環。
クーラーの排気などがどれだけ熱暑を高じさせているか。

まあ、それでも歳時記どおりはいかなくとも、時間をやり過ごせばphaseは変わる。
まだまだよし悪しの根問いができているうちは、OKといってもよさそうだ。

2015年8月27日木曜日

変わり目

落語の替わり目は、酔っ払った旦那が車屋やうどん屋にぐだをまいた挙げ句、女房にオマージュを捧げるほのぼの系の噺だが、このところの変わり目はあずましくない(当地の言葉でのんびりしない)。

dマガジンという週刊誌十羽ひとからげ、一山いくらならぬ突っ込み定額のサービスがある。
ほんの雑誌一冊の値段で、登録されている雑誌が読み放題。

このところ週刊文春が入った。
いまも読み終えたがもう買わない。
ただしお得感はない。
記事のトーンが古く、スキャンダルも浅く、まあ映画でいえば寅さんをいまたっぷり見せられる感じ。
一昔なら面白くもなくはなかったが、いまや出がらしの感が強い。
たぶんしばらくしてつぶれるのではないかと思う。
朝日系なんぞは、ネットのこのようなサイトでも見ない。
目が疲れるだけ損。

他人事で言ってるが、これは大変な時代。
弁護士の惨状は公知となってきており、法務依頼のクライシスも来ている。
医者も近いと見ている。
中国の事故で、中堅実務家が多分粛清や隠蔽のため拘束されているのに比べればまだましかもしれないが、医者も責任ばかり重く報われること乏しくなれば、弁護士の如く崩壊や逃散が当たり前になろう。
自分などはセミリタイア期に入ったからこんなことを言っていられるが、若い人たちは緩くない。

女房へのオマージュ、子産み子育ても、落語の如く酔っても楽でない。
これも終わっているからアウトでもあるが、あえて容喙すると、あまりに大変そうで気の毒。

ユビキタス

便利なようで不便、不便なようで便利。

ラインが拘束衣になって死に至るような悲喜劇もしばしば耳にする。
あくまで道具、手段なんだが、転倒倒錯しているような違和感を感じることも少なくない。
例えば、歩きながらスマホ携帯。
危ないし、そういうリスクおかしてまで見続ける必要があるのだろうか?
単にマシン、システムの使い方が下手で、非効率なライフスタイルに淫しているだけではないのだろうか?

ユビキタスを志向して、さまざまなツールを身につけ常に情報のながら族の先端を行っている知己にメールを送ったりするときも、やはりTPOを気にする。
飯食ってるときも、寝ているときも、そうではないだろう。
したがって、そういうことを忖度した往来に自己規制、配慮し、ハーモナイゼーションを図る。

こういうことを繰り返す中でプロファイリングもできていく。
この人はこういうところはこうで、ああいうところはああだ(ろう)。
もちろん、その質感から、相手の対応から、相手の反応を鏡像として、自分のプロファイリングもできてくる。
有り体にいうと、あのような方がこうだから、自分はこうなんだろうなという風に。
あわてた解釈は誤解のもとゆえ、こういうことも熟成度、感度、その他の考慮は大事である。
まあ、誤解も理解のうちとなれば、そういうことも含めて占えばいいだけで、占い師で商売に関わるでもなし、通底する価値観、判断基準は、もののあわれ。
しっかりプロファイリングしていても、互いに呆けることもあれば、君子豹変、天変地異もありえる。
いつもの、まさかという坂、マーフィーの法則だ。

ということで、わがユビキタスは、こういう環境論のようだ。
養老師の説くように、自分は宇宙服のスペースのごとき環境にある。
その環境は、ブラックホールにまでつながり、日常の感覚からは想像もつかないレベルで、階層で、閉じたり開いたり動いたりとどまったりして、いまがある。
先ほど目にしたホーキンス博士の講演発表では、ブラックホールを突き抜けた向こうには別の世界がありそうだとか。
博士なんぞは四六時中そのようなことを考えておられるのだろう。

2015年8月26日水曜日

いいことに気がついたね


ちょいと事務的なあれこれが片ついたので、わんこの貫頭衣に挑戦。

やってみると色々なことに気づく。
胸回り胴回り採寸して、ああしてこうするわけだが、合わない。
座り込むとずいぶん違ってくる。
だから布で包んで、はずれないよう、バラけないよう、どう上手に固定するかが肝になってくる。
そんなこんなもやってみないとわからない。

やってみて気がつくと、あれもこれも昔の人はよく考えてうまく解決したのだなと感心したりする。
現在のものでも、こういう目でみると、よくここまでうまく仕上がったもんだというものに溢れている。
もちろん、いまも昔もすぐに粗のでるパチものも少なくない。
そういうことも自分で試行錯誤してみると、おぼろげながら見えてくる。
こういうことは、モノに限らない。

サービスでも同じ。
うたっているわりに、みばえのわりに、貧祖な粗雑な悪質なものあり。

ネットなどでも、明らかなスパムでなくとも、みているうちにさわっているうちに、わかってくる。
SNSの言説や人間関係でも同じく、いろいろと浮き上がってくる。
したがって、これも虚心担懐にウオッチ、ハンドリングが基本。
あとは眉に唾をつけながら、聞き置く。

それにしても先程、Facebookでみた鳴霞女史の中国の爆発、習近平暗殺未遂の証拠隠滅のためというディープスロート話。
あっておかしくない話。
南北朝鮮の本気やら猫のじゃれあいやらの姿。
ホンに大変な隣人を持ちと思うが、足下をみるとこれも実に能天気。
気がついてもあまりうれしくもなく

2015年8月25日火曜日

秋風はやあしで

株式市場の乱高下。
為替相場その他もろもろ。

まあリアル軍事衝突が懸念される雲行きに、情報社会での情報戦、経済、テロかどうかステルス化して見えないが多分そうだろうと噂の事故多発。
情報社会はコンピューター、衛星、その他で究極の管理社会化していることから1930年代のようなカタストロフィーは起こりにくいが、逆に情報隠蔽や情報操作による事態のステルス化だけでなく、情報管理者も振り回される擾乱要素も増える。
ハッキング、虚偽情報の流布その他による情報テロのようなことも日常的になっている。

そんな不安定感のざわめく中で、灼熱の夏から、すでに秋風といってよいだろ涼風が快い。
どの時代にも、よきことと、あしきことの質や量は変われども、両カテゴリーに分類できることども、感興があって、それが矛盾や経験によって、暗転したり、万事塞翁が馬になったりする。
徒然草や方丈記に語られているコンテンツはいまも外れていない。
人生唯一回、生老病死、一日二十四時間皆同じ。

養老翁がよく解くように、このように同じを根問うことは、裏返せば異いを根問うことである。
一言ポソッと漏らすことで、あるいは常同的に口にする動きにすることで、ちょっとした嗜好で、それらが見える。
無くて七癖、あって四十八癖。
地球の裏の人もわからぬことと、わからぬでもないことがあり、国際化社会といえど、普通は情報ややり取りする物品でふと思う程度。
実は親兄弟夫婦友人でもそう。
逆にそこを突き詰めてはいけない部分がある。
殺人の多くは、そういう近しい人間関係に生まれる。

秋の思考もやはり我流のわれ流。
トンボや蝶々とすれ違ってとか、あの野郎といったルサンチマンは、あれど活字にする気にならず。
人生の秋はmelancholyにも愛想をつかされ特におセンチにもならず。
まあそれでよし。
実にハッピーな秋の入り口であると思う。

2015年8月24日月曜日

便利不便考

ネット知己が、ああでもないこうでもないと、オタッキーにマシンをいじったり、オークションで調達に忙しそう。
PCの草創期からのオタクだから、ホンに一生懸命ああでもないこうでもないとやっている。

この御仁は研究にも使っているようで単に趣味嗜好というわけでもなさそう。

コンピューターといったって、それそのものが仕事の人もくさるほどおり、別にコンピューターの専門家でなくとも、研究に使っているスーパーコンピューターが故障したら、泣きたい気分になる人もずいぶんいるだろう。

一定以上の複雑なシステムになれば、故障してもどこがダウンしているのかさえわからないということも少なくないよう。
最近そういうトラブルを身近で見聞した。

それに比べてわがパソコンの悩みは軽量級。
今日も書類の作成や印刷で少々トラブルを経験したが、最新の高価なマシンが動かず、昔の陳腐化したマシンが、わが作業にサクサクなど経験すると、パンフレットやマニュアルに載っているspeckなんぞくそったれなんて思ったりもする。
したがって、10へのバージョンアップも試しにやってみた一台にとどめることにした。

こういう過剰のナンセンスも経験してみて悟ること。
思えば、商品は購入したところからgoodsからbadsに転じ、それを諦めたら今度はかなり廃棄費用が要って、too badってことも少なくない。

不景気といえど、過剰で贅沢な悩み。
こんな現状ゆえ、需要も伸び悩むのかとも思ったり。
新物食いの面も維持しなければ、己が陳旧化化石化するので両にらみのほかなし。

便利は不便、不便は便利であることよ。

去り行く夏

高校野球も終わった。

エアコンもいつしかコントローラにもさわらなくなり、扇風機がひとり動いている。

終戦記念日が終わったと思ったら、ずいぶんとキナ臭いが、どうしたからどうなるわけでもなく、プレ戦時下気分にシフトしつつあるかなと感じるばかり。

この世もみんな開き直っているのかどうか、車の前の車道をノルディックウオーキングで婆様が歩いてくる。
命よりも健康ってとこかな?
即死ならばそれもありかもしれんが、長い寝たきりの始まりになるかもしれず、軽くクラクションを鳴らしたが、聞こえてないんだろうな。
素知らぬ顔で歩いていく。

老若男女スマホ携帯命の如く歩いている。
まだ婆さんの方が、前方直視しているだけましか。
自己責任で以下略。

惨殺された子らの親をなじる旧世代おぢのblog。
化石人間の脳も化石化しているらしくうまく働いていない。
いまのシングル家庭で生保の世話にならずワーキングプアをしているところは、夜遅くまで働いている母ちゃんも多い。
当然子の世話もむつかしい。
死んで号泣、自分の免責図る大泣きと指弾するが、世は冠つきのミュンヒハウゼン症候群で、自分が子供を殺したり、死ぬ思いをさせるのも珍しくなくなってきている時代に、牧歌的な論難風景である。

まあ、いつの時代も、これポッキリのいま。
気がついたら、よしなに静動するほかない。

2015年8月23日日曜日

ピンぼけ

今度のドンパチ気配はマジかと思いきや、なんだか交渉やらとユルリ。
まあそういうやりようの人たちなのよとわかる向きには、またかってことかもしれない。

話題の中学生殺にちなんで、実は殺人件数は減ってるんだの書き込み。
件数については、暗数もあって、社会状況、犯罪認知率によって違ってくる。
数よりも、今回のように一種通り魔的に襲われる体感治安の悪さがあげつらわれるのに対して、件数云々がまずピンぼけ。
殺人の中では、家族や親しい知己間が多い。
いまや家族崩壊のあげくの行方不明も多い。そのなかには殺人後の偽装届け出も含まれやすい社会状況にはなっている。先に挙げた暗数の話だ。
暗数自体隠れた数字の謂ゆえ、確たることは云えないが、論じ方がピンぼけではあった。

話は変わって、ライオン殺の話。
殺した御仁への論難に対して、ライオンの驚異に怯える現地の人は喜んでいるらしいと擁護論。
当地も熊が出没して、強硬駆除派が似たような論陣を張る。
しかし、出没の原因には、里山の荒廃であったり、無神経な餌付けがあったりして、人間様が強硬になるだけではいかぬ原因理由があり、上手な対策は必ずしもタカ派的駆除でもない。
アフリカのnativeの苦労は、ライオン禍そのものよりも、protectしがたい貧困や社会状況の寄与度が大きい。

てなてなことを思いつつ己もピンぼけを充分に自覚の朝。
休み明けの準備をごまかしごまかし進める。

2015年8月21日金曜日

神は細部に宿る

ちょいと打って出ようかと思っているシナジー作業も大体駒が揃った。
向う様も、こちらも、なるようになればいい、そういう風でやっていることで、さほどストレスなし。
もちろん、人間関係で紡がれる一段一段はあって、そういう意味では渡世の義理も大事と思い、一段一段は踏みしめる。

純プライベートには、わんこのテキスタイルデザイナー風作業に腐心中。
一定の機能が必須なので、ああでもないこうでもないとハムレット。
店舗や通販で済ませるつもりの当初はいろいろと試行錯誤で覚えたが、いまや自分で商品化されていないオリジナル、カスタマイゼーションを自らトライして達成するほかないとの見地に到達した。
甘くはみてないが、たぶんいけると思う。

最後はオリジナリティのように感じている。
話を転じるが、ネット知己の某先生。
多頻スレッドの方であるが、氏らしいリハビリをしておられる。
病前とずいぶんと変わったような印象で、かつ変わらぬ独特の色合い。
個体の変遷、いや社会でも国家でも宇宙でも、そのようなものではあろう。

そういうあり様を、自分のランダムウオークを含めて、プロファイリングしつつ、宿る神仏、天の采配と対話する。
利害得失の瀬踏みというより、そこを見つつ宿っているものども、ことどもとインタラクションしていくことが生きていくということであろう。

スラプスティック

爆発だの、ドンパチだの、かしがましい。

いまの時代、ハッキングなどイリーガルなインテリジェンス戦争が水面下の激戦区だから、我らが庶民は想像するだけだが、それでもえらいことになりかけている、なりつつあることは容易に感知できる。

大爆発はご本尊が公式発表しているディスカウントをはるかに超えているし、あれだけの事故ゆえ埋めたり覆ったり不可能、一番は事故そのもののrecover困難な被害そのものが厳しいだろう。
タイのテロも激動中のテロリストたちによるもののようで、国内外から揺さぶられての凶事らしい。
ドンパチもいつものごとき小競り合いか、閾値を越えた本格的カタストロフィーの幕開けかわからず。

一番情報がリアルなのはアメリカなどのmonitoring強国だろうが、見ぬものきよしではないが、下手なもの全部見ちゃえば、時気後れのお化け屋敷のような感じかもしれない。

そういったリアルポリティックスにシンクロしようにも不可能、できたところで無力な我々なら、最後の晩餐風に普通の日常性が享受できるうちにプチ贅沢するか、覚悟の只管打坐にひたすら身を浄めるくらいのものだから、あまり気にしようとも思わないが、決して気持ちのよい雰囲気ではない。

これだけ情報化国際化変化急峻化した時代の特性、環境ならば、それを基本的に甘受するのが時代人のデフォだろうから、まあ最後の下駄の脱ぎ履き前だが、一応悪くはなかった人生と総括しておこう。

願わくば、あのときずいぶんと事大主義に妄想してたよなと回顧できることを祈って。

2015年8月20日木曜日

晴耕雨讀

別に農本主義の時代でもなく、素朴に天候に合わせるという意味ではない。

いとまなく従事すべきことあれば、上手にアレンジしてこなす。
少しいま腐心すべきことから解放され、余裕の時間が持てれば、ちょいとレンジの広いやりくり画策に遊ぶ。

たぶん昔の人たちもそうだったんだろう。

もう少し着想を広げると、人間関係や自分の身の処し方にもいえそうである。
いま現在こういう位置付けでいいかなと動いていることどもが、動いているうちに、いろいろプロファイリングもでき、相手の自分の性格都合運命も出て、まさかという坂も経験して、縁のあるものならば進み、結局あわないものならばささやかな歴史となる。
この辺りも、晴耕雨讀的な遠近法が必要に思う。

いずれにせよ晴耕雨讀は、精勤の薦めである。
少し余裕のある時代なら、くわえてベイカンスがあらまほし。
しっかりと一時前提を棚にあげ、ひたすら空虚に虚脱しポケーっとする。
いまの時代、ある意味で結構豊かな時代になっているのだが、これがむつかしい。
情報量や接触機会が多くて、虚心になかなかなれない。
なろうとすれば、やはり座禅のパシーッといった精勤なassistが必要で、わがimageするベイカンスとは似て非なるものとなる。

時代に生きるのは、このようになかなかむつかしい。

2015年8月18日火曜日

涼転、あるいは寒転

急転ではある。
クーラーをつけっぱなせば、やはりこのところの話題通りはいかず、電気代は倍増じゃわいとごちているところに、ストーブが要るまではいかないが、ずいぶんと肌寒いほどの涼しさに転じた。

お盆も過ぎれば、特におかしいわけでもないのだが、尋常ならざる暑さだと辟易していたところでストンと環境が変わったので当惑気味なんだろう。

雨もあっての涼しさなので、外回りは少々不自由。
それでもこの程度ならうれしさが勝るか。

ライフスタイルを少々変えた夏なので、あえて無頓着に波に乗ってみた。
徒労に終わるか、ささやかな自己満足が得られるか、わからないところが面白くもある。

燃えるような暑さの頃には、自分の血も少々熱くなり、涼しくなると、トーンも落ち、少し荷卸しmode、moodになる。
四季の変化に、チクロイドの気質がシンクロしてグラデーションの中を移行していく。

元々自分の時間的推移、歴史の感覚不感症、十分な見当識の余裕のないままに生きることのほかできない体質。
それでも残り少ないという自覚が、その弱点をせっつく。
岩場からの転落時に高速の心像で過去を見せられると聞くが、いまわの際にそんな経験をすることができるのだろうか?

まあ、どちらでも甘受するというところだが。

2015年8月17日月曜日

波乱破綻宗旨替え

天津爆発尋常ならず。
チェルノブイリでソ連ロシアが屋台骨を折ったように、超限戦どころじゃなくなるだろう。

個人でも社会でも国家でも、総力戦で頑張ることは、あながち悪いことではないが、猪突猛進には無理が出て、しかも相手の隙を狙って、何でもありの邪悪な手段で葬ろうなどというのは、そう成功するもんじゃないだろう。

しかし、ここまで来たら、そう容易に骨組みを変えるというのも容易でなく、影響の大きさを考えたら、周辺も冷ややかにするだけではすまず、内心ヒヤヒヤものでもある。

To fail,too big.
朝鮮半島で崩壊が起こっても大変だろうに、世界の負荷はただならぬ。

まあ、なんて人様の心配するより、自分の頭のハエを追え。
原発も安全保障も、ギリギリcountry。
これだけ世界が狭くなりゃ、薄氷を踏む思いは、どこも形は違えど免れないといやあ、そうなのだが。

言葉の本来の意味で、適当に恙無くいくことのできるようにポートフォリオを書いてベストエフォートを指向する。

ダメなら、ちったあましな敗け形をつくる。

そんなところがおとしどころか。

2015年8月16日日曜日

up and down

雨が降ったりやんだり。
車で駆けているときに、スコールのごとき雨の境目を経験。
本当に気象ってのも極局所的ってのもありで。

ガスを入れようかとも思ったが、まだ減りも少ない安値安定でパス。
スタンドの隣のスーパーも面倒くさ。

ということで、直行した某スーパー。
scratchクジの最終日で、買い足してトライするも全滅。
昔30回余のクジに外れた経験に比べればマシか。

結局、あまり動かずに夏の疲れを癒す休日パターンに。
まあ果報は寝て待て方針でdown基調に動くことにするか。

2015年8月15日土曜日

見るもの潔し?

ポニョ子がまたオシッコシーツをくわえて疾走している。
このところ介入しない。
外回り中もやってるだろうことで、知っておくにしくはなし。

みんな各々流で動いている。
昔、ソ連のころ、いや今もクレムリンウオッチャーは、党機関紙や政府紙のさりげない三行記事などで先様の動静を占ったという。
それぞれの作法に特徴があれば、その変化でプロファイリングが可能となり、読みは容易となる。

わんこに限らずみてりゃわかるの世界はずいぶんある。
淡々と見ていく。
そこが大事である。

2015年8月14日金曜日

君子豹変

君子どころか、ちょいと前の自分めちゃおかしいでというのが通常の自己診断。
そう思うなら、一応君子豹変のカテゴリーにギリギリ入ってるかものパラドクス。
まあ、そんな論理学修辞学にはあまり興味はないので次に移る。

話は少々ずれて、SNSのお題。
しばらくして、己がよく言いつのった書きつのった話題から外れる。
飽きもあれば、自分がこだわっていた疑問点が消えたこともあれば、とにかくもうそれはいい状態になったときだ。

これは相手様も同じ。
話題どころか、そもそもお付き合い、コミュニケーションが縁遠くなれば、少なくともこちらのスタンスでは終わりでよかろうと思っている。
そうなるにはそれなりの理由があって、それらに沿うのが良しというのがおとしどころと思う。
無理はいかんぜ身体に悪い。

そんなこんなでお盆が過ぎていく。
70年に限らず過去に思いを遡及させ、未来に思いを馳せる。
しかし、まあ間違いの少なそうなのは現在。
ということで今日をもっぱら今日に生きることに。

2015年8月13日木曜日

miscellanyつまり色々

1日24時間ひと皆同じ。
暇で退屈、多忙で息切れ。
どこかに適宜があり、量質改善の要も常にある。
しかし、これも容易でない。
己という器、癖、その他知識社会学でいう存在被拘束性も強く大きい。

電車で優先席にドッカと座り込みスマホをカチャカチャの中年男、病院で高齢の母親連れのこれまた中年というか初老の男、親の年金あてにぶら下がって動いて回っている今結構多いタイプの様、恥じる気配もなし。

ホリエモンの安全保障提言、ちょいと国際国内情勢みてれば荒唐無稽無知蒙昧さ顕著。あるビジネスモデルや時代のトレンドに敏感それなりに有能とみえても、こうなんだというのが有り体のところ。

つまりはみんなこうなんだろうな。
己の一番見えにくいが自分。
その自分が虚心坦懐にと思っても、冒頭に語ったように存在被拘束性は緩くない。

てなことを色々思いつつ、まあ自分と自分がこれが世界と認知認識するところからは離れがたい。
ということで、ランダムウオークを続ける。

2015年8月11日火曜日

真善美、知情意、楽か苦かあの世

真善美は太古から文明文化問わずあらまほしとされた徳目。
知情意は真善美を知得する実現する領域方法手段といったところだろうか?

しかし、これらは所詮アッパーな人々のお題目で、われらのごとき下々はそういった抽象的で高踏な議論は、普通真剣に本気に首は突っ込まない。
あるのは、この世を身すぎ世すぎする上で、楽か苦か、それも飽き飽きし、あるいは苦吟し、辟易したあげくは、あの世はいかがなものだろうというところになる。

このところわが従事しているところを省察すれば、知識社会学的に、我々人間がどう四苦八苦しつつ、自己像を把握し、自己変容を企図し、環境適応しているかの分析とみている。

養老翁がご指摘のとおり、脳が脳システムが企図したり、適応を図っているところを適切に把握できるかというと自己矛盾のようで心もとないところだが、ソクラテス以来学問が「汝自身を知れ」をスローガンにする以上難渋しつつ模索するしかないだろう。

とりわけ下々を自覚する我とすれば、真の損得、あの世のありよう、真剣に占ってみたいとは思っている。

暑さ根問い

朝夕少し涼感が出てきた。
しかし、自分にとって猛暑感はあまり緩んでいない。
したがってエアコン等々対猛暑手段もレベルを落としていない。

これに対して当地の暑さなど知れたもの、関東関西の暑さに比べたら知れたもの。
そういう意見もある。
確かに彼の地に比べたら避暑地レベルではあろう。
しかし、今日も歩いてみて、暮らしてみて、楽かと云えば決してそれほど緩いことはない。

冷房の効かない熱射のアスファルト上を歩けば、十数分で汗だくどころかめまいのしそうなダウン寸前の状態に陥る。
大したことはないというご仁が、エアコンの下、あるいは車などクーラーのきく環境で動いているかといえば、必ずしもそうでない。
炎天下でトライアスロンを完遂する人々をみれば、体質や練度によって猛暑に強い人々もいることもわかる。

ただ、自分が暑さに弱いことをみとめるにせよ、やはり限度を越えた暑さだと思う。
実際に熱中症で倒れる人々が少なくないことをみれば、人がナチュラルに生活できるラインは優に超えていることは間違いない。

そしてこれは悪循環である。
クーリングすればするほど、外には熱気が排出される。
いえば自縄自縛、自業自得、悪循環ではあるが、各人がサバイバルを図れば必然的に起こってしまう事態で、これを逃れることは至難の業である。

超限戦なんてエゴイスティックで、ある意味非常にミゼラブルな考えが振り回される時代に、もっとベイシックな生存環境の確保で各人超限戦を余儀なくされるただいま。

逃れようがないものの、ホンに情けない時代よねえなどと自嘲を深める昼下りではある。

2015年8月10日月曜日

権利のための闘争

「権利のための闘争」は、ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering、Iheringとも、1818年8月22日 - 1892年9月17日)が1868年、ウイーンで行った講演がもとになっている。

その肝は、「権利の生涯とは闘争なのだ - 民族の、国家権力の、階級の、そして個人の闘争である。実際、権利は衝突の表現としてのみ意味を持っており、人類が自らを飼いならそうとする努力の顕れなのだ。残念なことに、権利は権力・不正に対し、今日の理性的な世界ではあまり用いられることのなく、不快で卑しまれるであろう方法で対抗しようとした。というのも、権利が社会闘争を真に解決しようとしたことは、今までにただの一度もなかったのだ。それよりも、権利が目指したのは、ただ単に、最終的な決定が下されるまでの間、どのように争われるべきであるかを規則に定め、それらの闘争を穏やかなものにすることであった 」ということである。

このような闘争は、時代時代の、各民族、集団によって特別であり個性的である。
また、同時に、類似性も持つ。

現在ISIS、ISILらが、斬首やテロで残忍だと世界の恐怖の的となっているが、わが国も100年余、200年足らず前には、安政の大獄や桜田門外の変で、似たような風景が現出されていた。
憂国の思想家吉田松蔭は、籠に乗せられ江戸に運ばれ斬首、反動として井伊大老は桜田門外で斬殺された。
わが国も切腹斬首、報復のテロは、そう珍しくなく行われてきた。
政治的激動期でなくとも、赤穂浪士の復讐劇にみるように、人間ドラマの表現形式の典型と言ってよいだろう。

もちろん、いまやそのような行いは許されることなく、平和裡に政治決着させることがルールになっている。

イエーリングは、ヨーロッパの法思想家だが、アメリカなどは、映画「ソルジャーブルー」で描かれたようにインディアンの頭の皮を剥ぎ、黒人を奴隷として支配し、今に至る。
銃砲とアグレッシブな攻守は、独立戦争の故事来歴より基本的に変わっていない。
これも権利のための闘争の特異的表現型のひとつである。

さて、最近知己から「交通違反取り締まりに見える日本的統治のいやらしさに義憤を感じる」との怒りとも嘆きとも取れるナラティブを聞かされたが、それこそ大化の改新、17条憲法、源平の戦い、応仁の乱、戦国時代、江戸時代、明治維新からこの前の大戦まで、わが国において育まれ続けた統治のシステムと権利のための闘争の表現型である。
ジェノサイドのごとき苛政は取らず、平家の落人集落程度にとどめ、真綿で首を締め合う力学、空気で殲滅戦的な消耗には至らない。
生かさぬよう殺さぬようといった窮屈さと自由安全。

そんなこんなの彼我を思いつつ、さて残り少ない人生、無駄に戦う暇はなし、かといってのほほんと呆けるにまかせるももうひとつ。
という根問いに興じるお盆前。
まあ、適当が一番。

2015年8月9日日曜日

アンチノミー

師匠の振りでカントの「純粋理性批判」とアダムスミスの「道徳感情論」について考えてみた。

結論的に云うと、カントは人間が理性的に世界を把握することについて、アダムスミスは人間が感情の面からいかに世界を紡いでいくかについて突き詰めている。

カントがドイツ語で本論文を上梓する以前は、この手の学術論文はラテン語で書かれていた。
「われおもうゆえにわれあり。コギトエルゴスム。cogito ergo sum」には、ラテン語では主語はない。
カントは、初めてドイツ語で突き詰めたゆえ、デカルトのように主語なしではない、一歩も、何千歩も進めたという心意気がみとめられる。
また、パスカルも「弱い葦だが考える葦だ」と喝破したが、カントは「アンチノミー(二律背反)」を執拗に検討することで弱さを超克せんかのごとくである。

そもそも、カントに限らず、人間は言葉で考えるという利益と不利益を持つ。
しかも、それは環境を超えてという意味ではない。
時代環境に強く制肘される。
カントが制肘されたのは、ラテン語と異なり主語をしっかりたてるルネッサンス後の近代自我主義と、インターネットなどを未だ知らぬ牧歌的な文明状況である。

カントは、古典的な論理学を駆使し、二律背反をめぐる教理問答を難解なカント語を積み重ねながら結局この世界は矛盾そのものであることから逃れられないことを示した。

矛盾を駆動力に歴史が進み、色即是空と同時に空即是色と釈迦が喝破した世界のありようを踏まえれば、カントの苦闘は、ルネッサンスを生んだ西欧近代の独り相撲にも見えなくはない。

直截に云えば、いまやITがわれらのインフラを支え、その進展はとどまるところ知らぬがごとくである。
情報は個人の処理能力を越え、これに適応するに人々は確固かつ唯一無二の人格というよりは、多重で流動的な演技的人格で過ごして行こうとしているかに見える。
科学も量子力学や複雑系といった考え方で、確率論的判断が当然となっている。
生きていると死んでいるが半々などと云えば、昔は病気とされたが、いまは常識となり、言語も語り得るところが語り得るのだという分析哲学的自己抑制が常識になっている。
こうなれば、現代人は、現象学や構造主義を、手品で自己欺瞞に陥らぬように護持して、どちらでもあり、半々だろうと花占いを続けて生き往きするほかあるまい。

アダムスミスもさも似たり。
感情論を扱って、カントと一年違いで生まれ、似た時期に著述したところに注目すれば、人間的自然が近代に於いてどう発露するか、どうプロファイリングすべきかの嚆矢となった来歴も、理性領域に集力したカント的営為の情版として理解できる。
したがって、これもネット、ITの時代に、デフォルトで真善美を語る道徳感情論が可能かというと、容易でないどころか、古きよき時代からすれば支離滅裂であるところで、カントの部分で述べたところとパラレルである。

てなところが、師匠へのreportだが、如何なもんだろう?

2015年8月8日土曜日

思えば遠くに来たもんだ~♪

原爆をかまされた記念日あたりを暑さごちながら暮らしている。

師匠から課題としていただいたカントの「純粋理性批判」とアダムスミスの「道徳感情論」を探索して一応の所見所感を得た。

人生一回り後の手習いゆえに、あのとき逝っていたら、邂逅の機会もなかったわけで、言えばまあすべて遅かりしではある。

生き物が生きることができるのが、今がメインで、過去や未来は容量が相対的に大きいと思われている人間にしてしれたもの。
そう考えれば、あくまでおまけと言ってよい、言うべきであろう。

総括は明日ここにアップしようと思っているが、ひとことで言えば、牧歌的かつシビアな時代だったよう。
近代という個や自我が浮上して大変な時代に、理や情で個や社会を料理するのは、今ならいろいろ言えても、当時はたいへんだったろう。

そういう目で見るのだが、今を生きていることからは逃れえず、ああだこうだと偉そうには秤量してしまう。
あとから生まれてきた者どもの癖というべきであろう。

ところで、いまは情報社会とて、カントやスミスのように直線的でない。
あふれた情報ゆえか、ひとは多重人格的であり、あふれた情報をハンドリングできないゆえに生まれる奇妙きてれつな現象も珍しくなくなってきている。

言葉どおりの多重人格、最後は異郷ではてた三浦某、時効ぎりぎりまで逃げ回った福田某女、あのころから演技的で多重人格的なありさまがポピュラーになってきた。
いまや個人から国家までマルチスプリットというか、ミラーボールか、万華鏡か、わけわかめの言動、蠢動でコンテンツの真意など見えぬがごとく。
それにナイーブに反応する人々のアーカイックに見えることのはなはだしさ。

そんな時代にあって、とどのつまりかと危惧する炎熱気候に焼かれつつも、やはり一服の涼を渉猟して享受できたときの快感はなんともいえない。
土曜の夕もそんなころになったから、ひと遊びするかと画策中。

2015年8月7日金曜日

大雨~♪

気象予報にchallengeしてみようと思ったこともあるが、まあどうでもいいかも程度で終わってしまった。
ゆえに、この大雨も理屈もつけられないし、勿論帰趨も読めない。

なにはともあれ、外回りは楽でないことはわかるし、対策はしないといけないことはわかる。
ところで、この障害がある意味で貴重である。

外回るモチベーション、意義、価値の査定になる。
商談、プロジェクト、交渉事、こちらが行けるだろうと踏めど、相手様は、状況はやはり動かない、negativeということはよくある。

それにはそれだけのわけはあって、事態の裏には、いやど真ん中には、矛盾やストッパーが強固に鎮座ましているわけである。
とらぬ狸の皮算用なんて諺があるのも、そういう皮算用がずいぶんとはずれるケースがあるからである。

しかし、そこからが大事なところで、そのブロッカー、あるいはミスマッチが、今ここで自己把握すべき真の姿であるということだ。
一見話がするする行っているようで、実はベクトルが180度相反していることなんぞ、ざらにあり得る。
まず、それがわかることが貴重だが、次になぜそのように相反するかを見極めることが大事である。
現在の状況が包蔵している大きな問題点がクローズアップされる。
相手様ももちろんだが、こちらの脆弱点までよく見つめれば浮き上がってくる。
また、お互いに、さはさりながら、そういうことなら無理だよねと腑に落とすべき関係性も見えてくることがある。

まあ、決定的でない齟齬の場合、そうすることが望ましいと判断されれば、適宜な距離でウオッチングしたり、できる付き合いを続けるのもありである。

そして、そのように恬淡と立ち居振る舞っていると、落ちるべきところに落ちる。
また落とすべきでもある。
微妙であるが、大切なポイントであると思っている。

2015年8月6日木曜日

微妙な違い~♪

暑さもこころもち和らいだかなと思えど、緩いかというとさほどでもない。
熱射を浴びた後はやはりcoolingに励む。
まあ冷たいものを渇望することがなくなったので、心身的にはだいぶ楽になっているはずである。

少しずつ還暦後の手習いを続けていると、古くて新しいテーマに遭遇する。
初見ではないが、人生一応一回りしてくると、やはりそうか、あるいは実はそういう意味なんだと、ミラーボールに光があたるように、いろいろな様子にみえる。
この辺りが面白い。
現代的な目で見ると、どうしても量子力学や複雑系的発想で、確率論的に事象を読もうとするし、これを現象学だ、構造主義だと眺めても、情報社会では読みは多義的、裏表になりやすい。
そこに矛盾論に思いを馳せたり、般若心経の色即是空空即是色など唱えれば、どっちでもいい前に、どっちに転ぶやらきわどい現実が見えてくる。

まあ、歴史でも、処世でも、故事来歴でも、レバタラの宝庫であることを思えば、八方目までいかなくとも、複眼的によい意味で適当を指向するのがよいのかもしれない。

そういう根問いをしているうちにヤツを過ぎた。

この程度の曖昧模糊な充実感がこの暑さには丁度よいように思う。

2015年8月5日水曜日

どこまで続く炎熱ぞ~♪

朝だって涼しいわけじゃない。
ひるまはクーリングしなきゃ身体が熱湯になりそうな勢い。

ということで退避してたらもうヤツの頃。
裸に近くしてても、もう一皮ぬぎたいくらい。
ケモノらはもっとだろう。
クーリングboardに乗っかってcoolingに余念がない。

食欲もあまり出ないが、水モノだけでなく、たんぱく質も採っておかないと弱る。

ほんとにcrazyな気候環境。
各人はここに焦点をしぼるほかなし。

2015年8月4日火曜日

まだまだ盛夏~♪

暑いよ。
外回りすると目眩のするような暑さ。

堪らないのでエアコンで抗戦するわけだが、これも長期にわたると身体が冷えすぎてダルい。
年寄りがこれを嫌がって熱中症にはまってしまう流れもわからなくはない。

そういうことで、水分補いつつのバスタイムで温熱療法的配慮も日に一、二度加味する。
そんなこんなでギリギリ健常さを維持している。

こんなテリブルな日差しの中で、ジョギングで黙々と移動していく人の影を見たりする。
人間それぞれなことよと驚いて車でささっと帰る。
ほんにいろいろなことよ。

2015年8月3日月曜日

なんじゃらほい~♪

 virtualクレカから、数千円の引き落とし。
心当たりなく、探索してみると、いつも購入する巨大通販業者。
某サービス1ヶ月ただ、その後放置で有料と化し、注文に心当たりないその日が今日。
成りすましかも?それにしては話が合わない。
いろいろと考え、照会のあげく、幽霊の正体みたり、業者の悪計。
こういうnegative option風は、そこここに埋め込まれている。
virtualクレカだが、ずいぶんと気味悪い思いをした。
これからは、この手のサービスは避けよう。

こんな時間泥棒に付き合っているうちにもうおやつのころ。

氷でも喰って暑気払いするかな~♪

2015年8月2日日曜日

急に暑さがやわらいで~♪

明らかに秋に近付いている。
日差しは強いが、昨日よりはずいぶんと爽やか。
やはり月替わりすると確かに違う。
ネット知己氏の動画にもシオカラトンボが飛ぶ。
ささやかに、大きく秋の匂いが迫ってきた。
ちょいと嬉し。

このところ勉強したり、種まき布石に忙しく、あまり無理な振りをしなければ、必要に応じて事態が進む。
ここが大事と気付く。
無理をしない。
馬を水辺までは連れていけるが、水を飲むかどうかは馬次第。
事態状況も同じ。
ちょうど果物の熟成のようにいわれるが、時宜を待っていただく。

今日は日和よいゆえあなどらず、よき休日として享受すべし。
皆様もボンボヤージュ~♪

2015年8月1日土曜日

新たな月、この週末も熱暑~♪

エアコンの下にへばりついても、やはり暑い。
水分を欠かさず必死で抗炎熱戦に従事る。

いろいろと聞こえてくるところによると、熱中症に近い状況でも自助共助公助の困難な事例が少なくないよう。
エアコンをつけたりすることを我慢するのが美徳とされたり、鬱熱脱水でも我慢したり誤魔化してダウンする直前で発見される、涼を取れば寒いと認知し、方法論を誤ったり、この夏は従来ならば何とか誤魔化せた状況が閾値を越えそうになっている。

かくいう我らも、ひとつ間違うと地獄変の世界。
わんこらも決して無理せず自愛の体制であるのが、見ていてよくわかる。

各位おさおさ対策を怠らず、無事秋の涼風までサバイブされんことを祈念する。