2015年9月30日水曜日

こんにちは~♪

偶然BGMにしていたyoutubeに、石原慎太郎と堺屋太一がBSフジで並んでいる最近のアーカイブが出てきたので、耳を傾けた。

東京オリンピックを中心に、過去の東京オリンピックのepisode、そこから社会変化、政治、文明論と面白い論が展開してゆく。

ここ半世紀で文明はおおいなる「進化」を遂げたが、それがありがたいことかどうか?
ITによる管理社会化が究極化しているばかりで、少々野放図にやってもいいじゃないかという余裕がなくなり、沈香も焚かずなんとやらで、生物、動物として生まれてきた醍醐味に乏しい。

こんな前振りで、こんにちは~♪こんにちは~♪の話。
Olympicの話を続けるわけではない。

機械による管理との付き合いかたである。

SNS、closedなメルマガ、その他いろいろID、パスワードで誰何される。
machineも性格いろいろ、働きいろいろで、いままでパスワード覚えていて自動で入れていたのに、急に入れろなどという回も出てくる。

そうなると、機械によるsystem管理がなされている大審問官様のcheck、検閲をまさに上手くパスせねばならない。
これがマーフィーの法則で、うまくいかずゴテることが多い。
そうなると、一からやりなおし、下手するとpurge、永久追放となったりする。

ネットバンキングなんぞは、自分の預金をしっかり守ってくれているんだと思い、紙媒体で書類を出し直せと言われても素直に応じ、この預金を貴重情報やプライバシーと読み替えればSNS等も同じではあるものの、面倒なことよとゴチることが少なくない。

短時間に焦って再設定のために、ハイパーアクティブとsystemにお目付けされると、よけいドツボにはまるので、そういうときは暫く干す。
system様の疑惑や勘気が解けたら、おずおずと再挑戦する。

堅気としては、そうするほかなし。

斯くして、口ずさむのは、こんにちは~♪の次は、だってしょうがないじゃない~♪ってことになりまする~♪

2015年9月29日火曜日

散るぞ哀しき

単なるネット知己ではない。
彼のblogを読み、そのうちやり取りが始まり、実際に呑み、歌った。
真面目に生活から社会、天下国家、出自まで、特にこれ以上に根掘り葉掘り聞いておかないとと焦らない程度に、わずかのリアル機会だったが共有の時間を持ったこともある。

彼の写真を拝見した。
眼に入れても痛くない愛嬢の写真。
僕がぽにょ子を猫可愛がるように、デレデレ。

ここで話は飛躍する。
散るぞ哀しき。
漢字はちょい替えた。
解説は細かくしない。
詳細は、梯久美子さんの「散るぞ悲しき」を読んでいただきたい。
実に家族に情の厚い指揮官が、大本営の馬鹿どもがと思いつつ、命を懸けて闘って、マッカーサーにも、クリント・イーストウッドにも、梯さんにも、青山さんにも、総理にも、ただものでない至誠と感動させた足跡が、いまの硫黄島に残っている。

この時期ゆえ、心ある人々に読んでいただきたい。

ムーンフェイス

スーパームーンらしい。
初耳だったので、らしいにとどまる。
小学校高学年で日の出の観測を女先生に命じられ、sketchや角度の測定をした頃で、天文とのお付きあいはほぼ終わった。
高校で地学を教わったが、多分興味が乏しかったのだろう、微々たる知識を得ただけで終わった。

ということで、今日もにわか天文ファンにもならず、ウロウロしたりはしない。
たまに、月や太陽を意識したときは、チラッと目をやり、天空に想いを馳せる。
今日も月は拝んでいないが、不思議は感じている。
スーパームーンであれ、オーディナリームーンであれ、月は結構でっかく見える。
ところが、地球をサッカーボールにたとえて、月との距離や大きさで比例させ、自分の元にサッカーボールを置くと、月は遥に遠く小さすぎて見えない。
そんな、遠さ、大小なのに、天空ではあんなに大きく見えるのか?
天文学、物理学、数学、生理学に精通しているご仁に遭遇できたら聞いてみたいと思っているが、死ぬまでに会えそうな予感はない。

こういう俗人的疑問は、実は非常に重要である。
今日はドクター師匠の講義を若いひとと肩を並べて聞いたのだが、学生さんに振られたここに座っていて東西南北はどっちとどっちだのご下問。
地頭偏差値の悪くない学生諸氏にも、勘のいいのと悪いのと、当たるのと外れるのvariety豊か。
実は、これは大事。
実務家で、これを間違えると危ない。
わが方向感覚も鈍く間違えやすいが、ひとつだけ自信のあることがある。
それはその弱みの自己認識が身に染みていること。
したがって、必ず逆張り、ポートフォリオ、確実なディテクションも加味するから、そう大きな間違いにはまってしまわない。

話は、勘の話に流れたが、SNSでの話題。
あるドクターが、健診で肺がん疑いのご婦人の相談に乗った話題。
そのご婦人は、2枚の写真を見た某Drから、2枚は人違いで云々と説明をうけたという。
相談をうけた書き込み先生は、この写真を加工して、スーパーインポーズして、同一性を検証したという。
この記事に、わがネット「友達」の健診専門医は、コメントで、健診領域でも複数の写真を差分解析して、変化を分析する専門手法があることを紹介していた。
教授が、いくら学生さんに東西南北の見極めの重要性を説いても、勘は間違う。
そういうときに磁石やGPSは便利で重要だ。
もちろん、機械も誤作動誤表示があるから、勘が鈍くてよいわけではない。

スーパームーンのように福々しいお顔の方に遭遇して、これが生まれついてか、この頃急に健啖家になったのか、あるいは病気や服薬でいわゆるムーンフェイスになったのか、いちげんさんではわからない。
過去現在の写真を比べたり、スーパーインポーズして、骨の形も変わっていないか、ボロボロになってないかなどの検討も必要になってくる。

月を想い、丸顔への連想に進んだ今日のミニ回想記。

2015年9月28日月曜日

秋の味

外回りの帰りに寄ったスーパーで、日頃はあまり手のでない果物を購入した。
秋たけなわで、特にセールなどと銘打っていないが、実にjuicyそうな柿、梨、りんごなどが並ぶ。
思わず手に取り、カゴに入れた。
旬の瑞々しさとリーゾナブルなお値段。
やはり季節に沿ったライフスタイルがいい。

午前中の雷鳴と窓を叩きわりそうな驟雨も極々短時間で終わり、午後は秋色の庭遊びに興じることができた。
繁茂していた野草も疎らとなり、色も落ち着いた秋色である。
そろそろ冬支度が気になるお彼岸過ぎ。
秋のたわわな果物を並べて眺めている。

さて、果物はオブジェとして眺めるのもいいが、難しいのはお魚。
置いておけば生臭く、焼けば煙が大変。
最近は、そういうネックに対応する調理小物も出ている。
下ごしらえ、タイムキーピング、その他すこし面倒でも、気をつかえば、ひと手間ふた手間を惜しまなければ、まさに上手く料理できる。
あるジャンルで、己を猿と見定めれば、毛の二、三本ずつでも増やしていけば、知らぬ間にまずまずフサフサしてくる。
自分でいただくのだから、下手の横好きでも、好きこそものの上手なれでも、毀誉褒貶は特に気にしなくともよい。

BGMにしているyoutubeでは、旬を過ぎた古老の司会で、すでに成立した立法談義。
化石化したMCに、常識派を第五列らが挑発、おしゃまにプロパガンダする構図。
ある程度のリテラシーあれば、ちゃんちゃらおかしい小田原評定ではあるものの、これが我が国のいま、もしかしたら伝統かもしれぬところが切ない。
切なくとも、秋のメランコリーに親和性も持たず、まずまずの積極的ニヒリズムに身を委ねられているhappiness。
久しぶりに交流した身近な先に送り状の説明書でもメールしようか。

2015年9月27日日曜日

お庭でピョコピョコかくれんぼ~♪

母親役がえらく吠える。
何か異変があったかと耳を澄ませるが特に異状は感知せず。
しばらくでおさまった。

何十分かすると兄貴分がドアのそばでソワソワ。
ちょうど部屋を出る用事ができたので、ドアをあけると、末っ子のお転婆がポーカーフェイスで入ってくる。

何かの機会に部屋の外に出て、るんるん一人遊びしていたよう。
お転婆だけでなく、肝も太い。
もって生まれた素因か、末っ子で育った短いながらも生育歴によるものか。
そんなことは誰にもわからないが、こういう性格の子との遭遇ははじめてだ。
なかなかhappy。

こういうほのぼの前振りの後で、無粋な話だが、ストラグルの話。
著名法人と著名幹部の懲戒解雇問題。
ともに個性の強い当事者の、単なる労働問題でもない、ヘゲモニーの握り合い色の強いという意味では広義の「政治性」を帯有する少々変わった事件である。

ここで個別具体的に論評する立場でないので、別の視点からの言及。
それはなにかというと、「ナンバー2は必ず消される」。
母校の政治思想史の教授であられた勝田吉太郎先生が、「諸君」に書かれた論文の表題。
手短にいうと、ナンバー2は必ずトップの目障りで、忌憚に触れ、路線闘争等々でトップにpurgeされるという内容。
確かに、最近でも北朝鮮の青年領主様のおじさんが壮絶な処刑されたといわれる事例があった。
毛沢東の側近周恩来のように無難に天寿を全うする例は、共産主義国家などでは稀有といっていいだろう。

切る方も楽でない。
ヒトラーも暗殺未遂は一桁ではすまなかった。
ナンバー2でもpurgeされるくらいだから、しもじもだってアンチパシーは醸成される。
習近平氏も政敵の暗殺に非常に警戒的に動いている話が飛び交っている。

個人がクーデター的に暗殺されるだけでなく、国家や組織の崩壊の危機ともなる。
今回の懲戒解雇事件も、プロファイリングする材料は、いずれと思わせる形でずいぶん広がっていたが、人生も、組織も、まさかの坂はどこにでもある。
決めつけずに見ないとわからないこと多々である。

2015年9月26日土曜日

今日気がついたこと~♪

伊集院光氏の「深夜の馬鹿力」は、翌日のyoutubeで必ず聴いている。
ライブにも聴こうと思えば聴けるが、楽曲のカットでコンパクトにトリミングされ、stopやrefrainが可能な翌日アーカイブが助かる。

冒頭に、「今週気がついたこと」を開陳してくださるのだが、落語家出身、コラムニストも巧みにこなす芸人、実に面白い。
ドロップアウター、鬱親和的なキャリアをバネにしているだけに、自己諧謔を駆使するユーモアとペーソスが小気味よい。
それが毎回小旅行記や趣味実践譚などの形で語られるわけだが、ご本人の乗っかっておられる業界の事情も、辛口にリビールできるギリギリでいじることも少なくなく、教えられるところも多い。

わがキャリアは、このような芸能に欠けるはもちろん、守秘義務その他でアンタッチャブルなことも多く、なかなかこのような手法で語ることは困難である。
まあ、それでも、今日気づいたこと~♪を語ろう。

虚空に吠えるような部分、trafficが多くて翻弄されるようなネットライフスタイルから解放されて、非常にカンファタブル。
リアルライフも、関係者と腹蔵ない意見交換がしたいと温めておいたQ&Aもやっとというか、タイミングよく解決し、ずいぶんとスッキリした。
やはり、隠忍自重がばっちり効いたと思う瞬間は自分史へのボーナスである。

さて、以上を少し長めのイントロにして今日気がついたこと。
SNSの数少ない「友達」の書き込みは、特にない。
これがいい。
両名とも恙無くやっておられると推測。
そのお一人がコメントしている結構有名なprofessorが、病名は定かではないが、入院とか。
少壮でクレバーな研究者であっても、歳を重ねれば生老病はshiftしていく。
自分で書き込める位だから、状態はそれほど悪くなくラッキーのうちなんだろうが、ここが各人、組織、社会、国家の妙。
むやみに不安症強迫症に陥ってもつまらぬが、やはり自他ともに仏陀の慧眼はアプリシエイトしておいた方がいいと推奨したい。
まさかの坂は、実はそれほどまさかでないことも少なくない。
本人が気がつかないというか、気がつきたくないために。

病気も偶然、必然いろいろと議論はできるが、個人的にも、集団的にもプロファイリングはできる。
異様にダボ、雑食健啖、多重人格的でギラギラ、平気でタカろうとする、何事にも浅く丸見え。
個人的にも、集団的にも、聞きしに勝る怪異醜悪さ。
実際に不思議と思いつつ温存してきた疑問符が、ジグソーパズルの完成でしっかりと理解できた。
まあ、彼らのような部分、別の形で己の中にありとも思えど、絶対にああはならぬという自己認識も再々自己問答するが、まああんな感じにはならないな。
他山の石。

さて、あらまほしは、ほのぼの話題。
お忙しそうな「友達」武人は、子煩悩。
自分の若かりし頃を思い出す。
ふたまわり目のわがコッコは、人間ではないが、幼弱個体というのは普遍的に可愛いと思う。
自分には稀薄になったエランビタール、生の躍動が伝わってくる。
これがいい。
一瞬一瞬が新しい今へのチャレンジであり、学習である。
もうこういう形での己の生はないという自覚と、ただひたすら新を味わうコッコらをかわいく思う想いが交錯する。
実にhappy。

2015年9月25日金曜日

let it be~♪

ネットへのスタンスを変えたお陰で、ずいぶんと動きがスムースになった。

ここに列挙してみると次のようなこと。
第1に、trafficを良質なものにsaveすることで、読みやすくわかりやすくなった。
かかる時間というか、アプリシエイトする時間は変わらないが、焦点をしぼると不本意な関与、無駄なstressが減る。

第2に、間口を狭くして、かつ深くあるいは広く浅く渉猟してみると有り体のところにバチっとはまる。
今回の新機軸に至ったepisodeも、そこそこの伏線があって、従前からどうも違うというテイストが続き、閾値に達して一気に排膿というパターンで成る程に至ったのだが、反省点は少なくない。
セクトカルトごろつきはどこにでもいて、その違和感を解消するためにぶつかり稽古するのも悪くないが、リスク、時間、手間、無駄を考えれば、さっさと情報収集してしまえばまあ間違いのないだろうの俯瞰図虫瞰図を得ることができる。
今回も某板でどういうわきかたをしている人間関係かと見れば、ずばりこりゃおぞましいと一目瞭然だが、自分の五感第六感で当ててみたいという志向がチョイと災いしたかも。
勿論、こうは思えど、二次情報よりも、自らの生の体験が貴重で全てに省力発想するのは、実に危険とも思っている。

第3に、ネットだけでなく、何についても、じっくり考え、あるいは手足を動かして一時はすっかり忘れないと、アディクション的に振り回されるは、表層的なあるいは教条的な思い込みに苛まれる危険が大。
昨日縁切れしたご仁にも、そういう違和感を深めたが、他人様のことに違和感を抱いたり心配するより、自分の似た頭の上の蝿を追わなくてはならない。

斯くして、われは随分と自由になったが、もうひとつポイントがある。
読み込みを絞った上に、書き込みも最小限に絞った。
どうしても言っておきたいことは書き込むが、他人様の目もあれば、先様の自由度の問題もある。
従って、このように自分のblogで言及しておけば、ご縁があればつながる、なければ繋がらない。
それがいい、それでいいのではないか?

医療者のネット知己が、友人の治療費問題で、今後の財政問題をからめて、制限的方向な流れを已む無しのニュアンスで応えていたが、こうでない頭が化石化したご仁は唯我独尊でこちらもつまらぬアジや嘆息に付き合わされる。
そういう意味で、交流ゲートを絞り往来を良質にすることは、環境整備に重要。
介護の離職率問題もシェアされていたが、単に経済的問題だけでなく、虐待などにみられる仕事そのもののやるせなさ、難しさがあるだろうと、ここにコメントする次第。

浮いた時間をネット環境の整備や手足を使った掃除その他の家事作業療法に使い、肝のお付きあいには真剣勝負に臨む。
ホマチ金あさりを2ちゃんねるにキモいと嘲弄されるなど、われには想像外だが、現実にはあるのだから他山の石にせねばならぬ。

狭いfollow範囲だが、たとえばFacebookとTwitterでfollowし比べると、同じ人でも微妙に発受信が違う。
followするに足る人をfollowする、これ原則。

まあlet it beが好きなので、当面この方向で進む。
happy & exciting~♪

2015年9月23日水曜日

プロファイリング、あるいはいいことに気がついたね~♪

ネットでフレイミングというほどのことはないのだが、ちょいとした経験で、これまたずいぶんと気付かされることあり。

あるSNSでclosedなサークルを作って結構手入れしていた。
まあテーマは仕事類縁で、必要と思う際は場外でアドバイスしたり、情報交換もしていた。
closedと管理の趣旨は、systemからは見え見えでも、フレイミングや情報拡散散逸をおそれて議論が進まなくてはとの想いで、あえて障壁を作り実をあげたいというところにあった。
当初は、ちょいとした社会問題についてインターフェイスもしたいというのもあって、割りに真面目に議論しているメンバーには壁外でも丁寧なやり取りが続いた。
社会問題はデリケートなテーマだったので、ディベイト風の議論にはならず、ここで示唆的に書き込んで読んでいただくという流れであった。
同じ活動されていても、もうひとりは科学哲学ノートを読ませていただき、さすが基礎科学系だなと感服することもしばしば。
ちょいと饒舌すぎるというだけでない変わったパーソナリティーと感じさせられるメンバーもいて、適宜はぐらかした対応をして推移していたのだが、今回ちょいと方向転換した原因となったsiteのご一統さんというかお仲間、コアメンバーのよう。
特に詳しいプロファイリングをしたわけではないが、ちょいとfighting風になったおっさんとさも似たり。
このおっさんのアーティクルをみたら、わが情勢渉猟とほぼ似たりの情勢分析と変わらぬ、結構穏当なもの。
ただ、このおっさんもよくは知らぬが、紆余曲折あっていまの境地に達したようで、ときにムチャクチャな形の問題提起をされたりで、なりわいだけでないscarが残っているよう。

わが作法は、そういうこと頓着せず、リトマス試験紙をポンと置いてみるので、反応の激しいときは、こういうことも珍しくない。
別にイタズラっ気というより、それが一番のプロファイリングの手法と思っているので、まあ琴線が逆鱗には、反応が私という鏡に映った相手の影だからやむを得ない。
但し、本当に病的な被害妄想などお持ちの方は、構うとエスカレートすると危ない。
自分だけでなく、世間様を騒がせる、ご本人の病状を悪くする。
よろしくない。
禁忌である。

さて、議論も生産的でないと見定めたclosed circleだが、解体の後に残した細い糸とそこに繋いだ豊かな情報空間で、一段と動きがしやすくなった。
そこにはこのblogも細く繋ぐつもり。

更に、わがネット知己の猫持氏のされているように、このようなopen空間で気を使いながら意味深長に書きつらねるより、ホンに気のおけない別途の場で、淡々と独白するのは 、これまた快感。
自分の秘密の東やとしてボソボソとclosedに語って行こう。

自分がこういう風だと自覚する深度が深まれば深まるほど、実に気持ちがいい。
ホンにいいことに気がついたね~♪

すっきりすきすき~♪

スマホにも、タブレットにも、すっきりと入っていたスカイプが、PCにはうまくダウンロードできないで膠着していた。

それが、あるPCにだけうまく落ちてきた。
これを各PCに持ち回りと見事全てのPCに移植可能となった。
しぶとく食い付くのが大事と悟る。

これとは逆に、ネットで自分の営為がムダというか、続けるとminusにしかならないと痛感する出来事があったので、さっそく新機軸に転じた。
失礼にあたる向きもあるやもしれんが、まあそうでもないとか、こちらが思うっているほど他人様は気にもかけてないとかいうのが如実にわかるエピソードでもあったので、心当たりの方には釈明のひとつもしたいが、多分それほど濃い自覚の方はおられないかもと。

実はわが敬愛かつむちゃくちゃゆえアンタッチャブルの猫持さんもハブとなる所ひとつ残し整理された。
その顛末もよく知るが、賢明と感じた。

ということで、わかる人にはわかり、わからぬ人にちんぷんかんぷんのああすっきりした談ではありました。

プライミング

Skypeの次にGoogleのハングアウトの自前通信を試してみた。
Skypeの世界的なトラブルがあって、そういうことの考慮もしてハングアウトも自家薬籠中にという思惑もあるのだが、モノは複数ないと比較もできない。

やってみると、最初はなかなかうまく行かないが、なんとか通信できるところまで行った。
あとは毎日の バットの素振り、バッティングセンターでの鍛練程度で、草野球のバッターボックスには入れそうだ。

別に電話会議の予定はない。
若い子が遊んでいるような使用法も趣味にはしない。
たまに業務に使うことはあれど、特に予定があるわけでない。
しかし、現在の自分のresourceとしては、非常にベイシックで、かつ重要と踏んでい
る。

ちょいとわけを語ろう。
あくまでわがコミュニケーション論ということだが。
第一に、十分な理解には顔つき、絵面の印象が大事だ。
まあ、五感第六感駆使するには、それでも不足で、医事法制でも対面診察が基本に課されているわけだが、せめて動画的把握は必須である。

第二に、だからと云って、拙速にビデオチャットは不適切。
メールや静止画像、あるいはリアルの人間関係で、一定のプロファイリングができていないと、遠隔画像コミュニケーションというのは、ミスリーディングが入りやすい。

第三に、ここいらが上手にできると、わざわざリアルで会って残念~♪とguitarを掻き鳴らす必要もなくなれば、もっと前にメールや手紙で、その先のビデオチャットもomitできる。

つまり、このようなpolicyで行くと、ビデオチャットなんてのはよっぽど親しい交流者でもいない限り、そう使う代物でもなくなる。

したがって、複数IDを公認されているSkypeやハンドアウトを使って、野球選手なら基本の素振りやノックに相当する自己間通信に励むわけだが、これが各PC等のメンテにも効く。
通信機能とワープロ機能の始業運転、メンテ作業にはピッタリなのだ。

斯くして、ネット対応も、表面的な動きに右往左往するだけでなく、本来の貴重な稀有なプライスレスなレベルの交流にオサオサ怠りないつもりなんだが、現実はきびしい。

昨日も某SNSで「友達」リクエストがあった。
スパム、フィッシング疑いは即rejectするのだが、そうでもなさそうと一応応諾して、二段階目のcheckに。
特にクレイジーとも思わぬものの、自己愛的な過去ログの下に、ファンタジーっぽい書き込みがずらっと。
古いそれらの書き込み見て、やはりこれはお構いできかねると「友達」はずし。

斯くのごとく、スパム比率同様、この世は深くお付き合いできる関係が醸成される確率は微々たるもの。
まあ、特に使わなくて済めばそれでよしの保険のような側面あるツールで、環境整備できればそれもよし。
いまのところ日々の営みの一部になっている。

2015年9月22日火曜日

miscellany

まあ休みったって、特に何の計画があるわけでもなく、驟雨がときどき襲ってくる空模様ゆえ、晴れ間に庭遊びで運動不足の解消を図る程度。

こういう日が続くと、冷蔵庫の、食品棚の棚卸しには最適。
あえて頑張って在庫一掃を目指す。
調味料その他そう簡単に使いきるわけのないものは、期限切れを捨てる。
しかし、貧乏性でどうしても果敢にはできない。

リアルワールドでは、モンロー主義ではないが、あまり濃いコミットメントはこちらからは企図しない。
進むところ、熟成するところを無理せず流れに任せる主義にしているので、ちょうどよい。

ネットでは 、スカイプのスタンバイを日々check。
LINEは、systemに危惧感持つのでオフリミット。
テイスティングしたことはあるが、勝手に他人様が一丁噛みしてきたり、ノイジーでリスキー。
スマホやタブレットの本来的機能とスカイプのビデオチャット程度で十分。

ネットは、いろいろと思うところはあれど、ハンドリングは容易ではない。
一番は自家中毒。
狭い発信に溺れたり、漫然とした情報検索は、ケトン体を増やしてしまう。
アタッチメント、ディタッチメント宜しきを図るバランス感覚が必須。
このところ目配りよくいけていない不全感強し。

二番目は、他人様に教えられるところ。
まあ、老若男女、上下左右、豪柔長短その他属性は置いて、これはダメだなというモードは自分には禁忌にして、せいぜいwatchingする程度にする。
特に気を付けるべきは、自意識過剰を越えて被害妄想っぽいありようには気を付けた方がいい。

rssrリーダーでfollowしている某doctor。
出身校でスタッフにいじめられたとスピンアウトした方で、その辺りの怨嗟の念も少々度を越したレベルなんだが、その他の言動も尋常でなく、自分の方を見た子供がどういった、若いおねえちゃんがこういったと、精神科医でなくとも妄想噴出のわかるレベル。
シゾフレニーはまずまちがいないが、この程度で治まればいいが、、、、。
長崎の初代教授もミイラ取りがミイラになって、米留学時に被害妄想から人を殺めてしまった。
生物学的な理解ならピントはずれと云われようが、少しでも分析的な目で見れば、人間の自我肥大、それに伴う被害意識の肥大は誤想防衛を生むからむつかしい。
今回の政局も、理性的にマヌーバーしている意識のある連中はわかってやっているわけだが、その操作によって舞い上がって頭のつむじをグルグル回しすぎの連中の言辞には危険なものを感じる。

先日のことだが、素朴につきあえると思っていた知己が、来いというので行ったら、かえれという。
こちらは、血中酸素飽和度を下げるほどに駆けつけたので椅子で小休止しているのを追いたてる。
一生友達でと握手を求めてきたご仁なれど、彼の限界はよくわかった。
以前からA型のいいふりこきは気が付いていたが、ちょいと正直な所見をいい募られると ビビるようで、実にけつの穴が小さい。
自分の他人への体面を危うくされると感知すると、斯くのごとく酷薄。
その上で、自分の頼みたいことは維持的に変えない。
あっ、これは俺の友の概念には入らないと、黙ってomitすることに。
全て慇懃無礼かつ欺瞞的威圧的に解決しようとする団塊っぽい要素も入っているかもしれない。

三番目は、質の向上。
ちょいと上質とみてfollowしてみると、冗長なだけだったり。
他人様はかたくなだと批判して、そのうちご本尊がそうだとわかったり。
これは他人事ではない。
己が最も注意すべき点。
マルクスが経済哲学手稿で、愛は愛としか交換できないと喝破したとおり、真善美はそれ相応の真善美としか交われない。
水魚の交わりを欲するなら、畳の上の水練からでも学ぶことは必須。

ワンコらは、安易な安心を許さず。
気を抜くと、エントロピーは大きく広がり。
うまくない叱責は、見えぬところにゲリラ的犯跡を残す。
当面ここがわが主戦場である。

2015年9月21日月曜日

わかるということ

連休ということで、いろいろザッピング三昧。

新聞テレビは信憑性に疑いを持った時点で辞めた。

週刊紙もガセ、キャンペーン、その他もろもろ、せいぜいdマガジンで流す程度。

youtubeその他のネットは、玉石混淆で裏を取れない情報は、陰謀論等でなくとも危ない。
結局は、ただで流布してるものは所詮その程度。

それでは有料なら如何といっても、特に出版社が自称クオリティ誌と自画自賛しているのにろくなものはない。
何誌か購読したことがあるが、ただの通販を越えない。

素人でも定点観察したり、検索能力に長ければ、結構間違いのない判断をできるところはある。
クレムリノロジストは、プラウダ等のアクセス可能紙を定点観察して、写真の変動で権力変動などを見てとった。
北朝鮮、中国なども現在もほとんど同じ。

あとは料理人の藤本某氏のような近しい人間の経験譚を腑分けしていけば、ある程度間違いのない推測はできる。

まあ、そんな仕事をしているわけではないので、別にどうでもいいのだが、生活万般を床屋論議から少しレベルをあげるには、このような「わかるということ」のソフィストケーションは必須。

そのためには実践も不可欠。
やってみて、口先だけの自分ならやらせてみて、やっと少しましにわかる。

しかし、人生は一度。一日は24時間。

猫のように何千回も生まれ変われると思うならよし、思えない我ゆえに、そこは己の甲斐性もみて、ぼちぼち、おそるおそる、必要なら果敢にやっていかねばならぬという話。

2015年9月20日日曜日

さようなら

どっかへ行く、だからさようならfarewellって話ではない。

左様なら。
このようそのようならば、こうねってのが、左様なら、さようなら。

これはまず現在使われている挨拶などがあてはまる。

道で顔を合わす。
知己で会釈する。
ちょいと立ち話してみるが、時間がないのでいきますね。
知らない人だが、会釈してくれるから、こちらも会釈しておこう。
向こうから不穏な感じの人が歩いてくるから、さりげなく道を渡り、歩く。

これらは、みんな「左様なら」で「さようなら」ということである。

これは、かなり汎用性がある。
たとえば、ネットでフレイミングになりそうになる。
危なそうな奴だから、そ知らぬ顔で通りすぎよう。
言えばわかる相手そうだから、それなら少し心を怒りから放して説明してみよう。
くやしいから、そんな奴には捨てぜりふ浴びせて、ヒットエンドラン。
形は違えど、さようなら。

これはmachine相手などでもあり。
愛機のPCが、フリーズする、過熱する、その他もろもろ。
この子はよくこうなる。
しばらく放置すると、クーリングすると、戻ったりする。
だからしばらく置いておく。
これも左様なら。

ここいら辺りまでは、生活の智恵、有象無象の蘊蓄もどき。
困るのサヨナラできないケース。
これが今回の法案審議のドタバタ。
中国がうちのドアまで、いや領土の内まで足を突っ込んできていて、軍事パレードで核もぶちこめるぞとミサイルまで誇示し威迫している。
アメリカは、どこまで噛めるか、ムニャムニャが大きくなって頼りない。
左様なら、逃げるだけではいいようにされるだけだ。
しっかり、自分で、また同盟国と紐帯と強めて、対抗したい。

これに対して反対派も「左様なら」と、さようならと距離を取るどころか、タックルするごとく肉弾戦を選んだ。
そして、国際紛争の前哨選のごとき左様ならマッチが展開された。
少なくない人々が間接侵略ではないかと認知認識する政治闘争は、法改正後も続くだろう。

基本できれば、さようならとディタッチし、そうも言ってられない看過できない左様ならならタックルも辞さない。

これは特別にわが国にあてはまるというより、かなり普遍的な作法と言っていいだろう。

2015年9月19日土曜日

だってしょうがないじゃない~♪パート5

黄色く警報的newsもやってくる雨。
今日も散歩無理、加えて庭もべちゃべちゃでインナーlife。

休みが長いと、毎日が日曜日の自営セミリタイアも、ロシア民謡の「一週間」のチュラチュラなモード。
ゆっくり、ひとつひとついじる。

スカイプのメンテで、一人芝居×2でビデオ会議。
メンテ怠ると、実際に使おうというときにごてる。
今日もゴテたので、毎日でなくとも、忘れない程度に要メンテ。

SNSご老体とやりとり。
特にフレイミングでもないが、いま現状で論点となっているところから終戦直後からしばらくまでの故事来歴ふまえぬマダラ退行の原理論に戻られても、こちらもニコニコやりあう暇もなくomit。
今回の世の喧騒も、それ未満のまだらどころか、ストレートdementiaのシュプレヒコールが空を飛んだ。

整理学。
わかりやすいところに置く、寝かせる。
仕舞うレベル、タイミングを考慮しないと、すぐに参照必要が重なり、出したり入れたりで散逸のリスクも増大する。
そういう算段が大事と思うまもなくロートル道に来た。
それが上手だったら、こんな人生いきてないわい。

今日も、だってしょうがないじゃない~♪のオンパレード。
でも、諦めきれずに、諦めきらずに、シコシコむしむし。
生きるって、家康爺のいうとおりそういうもんよ。

だってしょうがないじゃない~♪パート4

休みだからとのんびりblog。

昨日お話したように、gmailの動作がうまくないのに辟易した。
今日は一世代前のタブレットでやってみた。
すでに旧式で、現役のSIMカードなし。
Wi-Fiで動いている。
そのせいかどうか、どこの棚がというより、gmail自体が自動で同期しない。
別途面倒な手作業で、現役SIMのタブレットで同等に。
そして、testしてみた。
なんと書きかけで保存して、これに加筆しても、ちゃんと反映してメールを送りやがる。
嬉しい方に予想外。

これは、想定外、予想外のだってしょうがないじゃない~♪。

もし、SIMの通信機能や、旧来機のメーラーの正常なる特性から来ているのなら、システムの切れていること、一気通貫でないことの幸甚、悪くなし。

結局、だってしょうがないじゃない~♪の断念と、逆の望外のラッキー感。

だってしょうがないじゃない~♪の万事塞翁が馬バージョンである。
政治家なんて、普通こうなんだろうな。

だってしょうがないじゃない~♪パート3

gmailの下書きにメールの中間品を入れる。
加筆しようとすると、加筆はできなくはない。
しかし、完成品を送信しようとすると、送信の表見的動作は出るが、実際には飛ばない。

ネットで調べると同事例がわんさと出てくる。
Googleの社内Q&Aでもスタッフが応答してるが治せていない、要はバグだ。
今日はちょいと業務っぽいメールで、このゴタゴタに巻き込まれたので実際的にも困りモノではあった。
タブレットにバンドルされている標準メーラーでやれば、加筆もちゃんと保存し、送信も恙無く終わることがわかった。
Gmailも、一気に書き込めば、下書き欄で作成しても、送信メール欄で作成しても、支障なく飛ぶが、安心してレジューム機能を使うためには、バンドルされたメーラーの方が使いやすい。
逆に、こちらはゴミ箱欄に大量にメールを溜めると、一括削除が困難、できない。

斯くのごとく、ユーザーはバグ含めて提供されたsystemに追従するほかない。
エバノートにも買い物メモをあげといたら、見ようと思うと文字化けでパー。
クラウドも仕事の書きためなんぞしとくと、一瞬で長時間、長期間の労力がパーになるリスクを背負う。

昔は、こういうことも無料だから、有料ならましかもとも幻想できたが、そうでないことはよく耳にする。
特にシステムdown等なくとも、会社の方針で電子書籍が読めなくなった、クラウドにつなぐ端末機が使えなくなった。
枚挙にいとまがないほどある。

ということで、システムのだってしょうがないじゃない~♪はここまで。
本論の人間論、人間関係論に移る。
SNSなどでも、あれだけ説明したじゃない、、、ってのが聞いてないよかどうか、聞いても知ったことじゃないよか、ああ通じてないんだなということは山ほどある。

当たり前だのクラッカー。
そんなもんで共通理解、マンセーに至るなら、このたびの政治scene、茶番劇もあるはずはない。

ここも面白いところだが、距離おいて偶然やり取りする場で、ずいぶんラポールがいいなってこともあったり、それも工作員かどうかなど疑惑要素や被害妄想に陥りかねない要素を読み込めば、まあいろいろとあるもんだなあとご縁をアプリシエイトする程度がいい。

斯くして、人間模様もだってしょうがないじゃない~♪
辛いのも楽しいのも、あたりはずれも、いまはこう、先はさき、昔は昔いまはいま。

こういうのを積極的ニヒリズムというのか、適当主義というのか、少なくとも自分がそうなってしまっているのはよくわかる。
だから、だってしょうがないじゃない~♪なんぞとハミングしながら、ワンコの粗相の始末しておりまする~♪

2015年9月18日金曜日

だってしょうがないじゃない~♪パート2

朝が押せ押せだったので散歩はサボった。

ゆえにゆうげのころの庭遊びを日頃より長めに楽しむ。
たまってるんだな。
いぬ息子はスイッチが入ったように走る。
いぬ娘にかまう。
度がすぎるとたしなめるが、そこそこはバイスタンドするだけ。
度がすぎて放置すると悪癖を身につけてしまうので制止はすれど、彼もそれなりにはわかっていて、たしなめられればtoneは落ちる。
全体の気がはれると、自然と撤収ムードになる。

十分にstress発散すれば、ケモノの喜びは夕食。
鶏も食われるために生まれてきたわけではないが既に食用に化身。
ガラを細切してもそこそこの骨身は残るが、この頃はあまり頓着していない。
スプーンfeedingしても、老いれば、馴れて咀嚼嚥下能が退化すれば、誤嚥したり、骨を喉に刺さらせて往く子が出る。
命をいただく怖さ。
給食でうずらの卵を喉に詰めた子がいるが、食事は自分との、餌に化した生命体との対決ではある。

さて、長いまえふりの後は、人間様の話。
有名どころの副院長が、理事長に反旗を翻してドタバタしているnewsを知る。
判例やnewsのアーカイブを調べると、結構解雇無効訴訟の前例は出てくる。
訴訟になる時点では、既に結構無茶苦茶である。
病院はpurgeした医者の不行跡を言いつのれば、purgeされた方は、病院の、理事長へのcounterパンチを炸裂させる。
事実上は、無効判決が出ても元の鞘には戻りにくい。
戻っても事業所の幹部としては使えないから、配転、ナンバー2ともなれば降格しかなく、これも揉めると、どこまで続くぬかるみぞ。
これを避け転職と決めても、ビッグネームなら引き受け先も大物係争の影響を考えて二の足を踏むかも知れないし、温厚円満を望むところならば前職でメチャ戦闘的は忌避心理を呼ぶ。
あえて火中の栗を拾うのは、ライバル企業やご当人の戦闘理念に共感など、前の所属病院に、確信犯的にタイマン張ってよしというところだろう。
仮に、そういうタニマチが出てきても、出てきたがゆえに戦闘も拡大するということで、戦闘維持の負荷はより重くなる。
解雇した病院も著名になるは一癖ふたくせ、黙って専守防衛していれば、敵に切り返されたままとなり、とんがるは必定。
ベトナム戦争ではないが、泥沼化する可能性は少なくない。

かくて、イントロのワンコら風景とリンクだが、ワンコにはワンコで駆け回りたい、喉に刺さるかもしれぬ骨もバリバリかじりたいという本能、業がある。
やり手、出る杭さんにも、その資質と、暗転すれば喉に刺さる副作用もある。
斯界も鵜の目鷹の目で注視している。

話はいま騒ぎの法案に変わる。
法案というより、反対派の態様である。
ある意味かわいそうでもある。
昔だって、新宿騒乱もあったし、凄惨なウチゲバもあったが、命懸けの活動で、過激派にももしかしたらなんぶかの理もなくはないかなとも思えなくもないところがあった。
ところが、この情報社会、ネット社会。
カルト異教の活動家が、いくら一般学生ですとシャーシャーとしても、バックグラウンドは瞬く間にさらされる。
コリアン系の議員が、テレビニュースでいくら与党議員の暴力でと息を切らせて芝居をしても、ちゃんと委員会で暴力をふるったのが自分たちだというのが ばれる。
いまは国際的な画像も日々オンパレードで、あんなすぐばれる嘘八百を平気でつけるのは、帰化前の母国の血脈か?なんぞと、昔ならそんな形で出なかった条件反射も生んでしまう。

ということで、何をどう分析しても、言動に表しても、いま現在という有り様には逆らえない。
つまりは、だってしょうがないじゃない~♪
でも、因果応報、あるいはまさかの坂は、常にあり。
心得ていくほかないべし。

2015年9月17日木曜日

だってしょうがないじゃない~♪

結論的に言うと、生前レクイエムのために自分用コラム集作るのやめたぞ。

偶然youtubeのお勧めに出てきた中国人経済アナリストと日本人識者の対談をcatch。
いつも参照している宮崎某氏や石平氏らのような桜チャンネル系中国ウオッチングと異なり、さすが富士通のアナリスト、実体をもう少しクールにとらえている。
もちろん、中国人ゆえ粛清されるわけにいかなければ、政治的にデリケートなところには不必要に踏み込まないが、以前から時々コラムで読んでいたとおり、政策的批評などは向こうの当局の耳に逆らいそうなことでも淡々かつ辛辣に語られる。
何(カ)なんとかさんという方だが、不明なこともまた何故に不明かを明晰に説明される。

確かに、右派系の中国は危ないから脱出せよ、もうすぐ潰れるばかりのリフレインだとつまらない。
田母神閣下に論文賞与えて問題になったAPAホテルの総帥夫婦も、この故事来歴どおり右のタニマチだが、近所のAPAも中国人旅行客であふれ、売りの大浴場も彼らが無作法だと日本人客が忌避するほどだ。
APAだけでなくヤマダ電気の壁には中国語でtax freeの表示デカデカで爆買どうぞどうぞmode。
考えてみれば、トヨタだって、今どきどころか、自分が医者になった大昔に中日友好病院に資金入れ込んだり、覚悟の進出を何十年も前からしっかりとやってきている。
何センセイの分析する冷徹なアナリストの目でみないとわからない。

自分の中にも、桜のご一統 にウンウンと、イヤイヤそうでないべがあり、リアリストにも同じく。
APAの社長らにも、ヤマダの業態にも、そうだろうなあと、大変だねと、いつまで続くんだろうねと所見、質感のミクスチャーがある。

長いまえふりのあとの本題。
二股膏薬のほかに、というかそこから派生で売文、教育一丁噛み、講演などで口を糊してきた。
元に疑問が満載と同時に、派生にも売文の被管理感、マスコミ実態への反発 、読者へのノビーっぽい反発怒り、教育講演でも略するが大同小異。
そこで人生一回りしての後の自由に、野垂れ死に覚悟の無理矢理の宴のあと気分が加わってのいま。
さあ書くぞが、自由に正直に自分への献本がdriveだったが、、、。

駄菓子菓子、昨日のようにひとつラジオのアーカイブ聞くだけで、自分の持っていたパースペクティブが変わるわけだ。
別に何のためということでもないが、ネットでも少数のまさに自分が対話するに足る、また情報流入元としてそれなりの質とおもえる抽出集団、ネット知己を通して、ああでもないこうでもないをやっているが、教えられるところ、似たところ、違和の強いところ、当たり前だが多々触れさせていただいている。

このように、日々パラダイムシフトというほどでなくとも、宗旨替えというほどでなくとも、日々微変態するのならわざわざテンパることもあるまい。
仮に商用の場で書くことがあるにせよ、かつてのように口を糊するためのムチもアメもない。
多分ひたすらいまこうすることに意味を見いだすという、陽明学は信奉せぬが知行合一的なものであろう。

ということで、冒頭に戻る。
良いことに気がついたねで、いまが幸せ。

2015年9月16日水曜日

時の悪戯だよね~♪

言動という言葉がある。
これが、言論のみを指すのか、言論と行動の両方を含む言葉なのか、しっかりとわからず、わかろうともせず来た。
辞書でみると、言論と行動の両者を含むらしい。

わが疑問のようなはっきりしない感も少なくないようで、そんなQ&Aも見かける。
まあ、単に並列で二者を含むというだけでなく、言動不一致、言行不一致のようにコントラストを示唆するようにも使うというところで疑問も出てくるのかもしれない。

言動不一致で、言うこととやることが違うというだけでなく、どうも言動そのものにそういう怪しさがあるように思う。

というのは、言うなり行うのは、その時のものである。
しかし、時は流れ過ぎていく。
主体の肉体も日々代謝によりホメオスタシスは維持しつつも異なった構成体と変じ、それにつれ心、精神も変わる。
結婚、就業離職も、3日、3ヶ月、3年が一里塚、二里塚、三里塚になっている。

もちろん、戦略的に、あるいは擬態としてやることもある。
シールズ某君は、真っ黒頭にして、おせらしく公聴会供述を行っていたが、川藤氏のいてまえ路線的発言はおくびにも出さず、これだけの人がダメだと言っているんで何とぞと擬態を演じた。
民主党のイオン氏らは、髭隊長に従前の集団的自衛権容認発言を指摘され、ブーメラン怒髪天を演じた。

しかし、そういう戦略的意図的な話でなく、人は生きていて徐々に、あるいはドラスティックにだろうが、転向といおうが、成長と評そうが、堕落と唾棄しようが変わる。
ここが時の残酷さと言おうか、優しさと言おうか、とにかく悪戯だよね~♪なわけである。

だから、冒頭の言動の語義に戻って、言動はアドホックで、遷移しやすく、一定のタイムスパンで見れば、言動不一致、言言不一致、動動不一致なんでもあれとなる。
もちろん、変わってもアイツらしい変わり方ってのも他人様もよくわかって、棺桶に片足突っ込む頃には自分でも少しは勘づいてくる。
まあ、変化含めてのプロファイリング。
微分的プロファイリングと積分的プロファイリングの総合統合化とでも言おうか。

かくて、言動を長編動画でなく、ワンショットでとらえようとすると、手練れのカメラマンのように相当のスキルが要る。
それが我には欠ける。

また、コラム集に着手できない言い訳を並べてしまった。
残念~♪

2015年9月15日火曜日

めぐるめぐる季節の中で~♪

秋雨の合間なので、庭遊びもあきらめた。
ワンコらは、今日調達してきた豚足をしがんでいる。

ということで、日が落ちたらさっさと寝落ちした。
秋雨の肌寒さのせいか、早寝のせいか夜中に目覚める。

季節の移ろいの中で、少しずつライフスタイルもシフトしていく。
今日はカイマキ風を調達予定。
これはワンコらの敷毛布の洗濯中のリリーフともなる予定。

このようなささやかな一人称のわが歴史と、世の中とふれる二人称の中歴史、及びもつかない地球、宇宙、逆に小さすぎて複雑すぎて見えない素粒子レベルの三人称の大歴史。

まあ一人称も認知症に至らずとも、とぼけて生きて、いまも進行中。
心理学的、医学的、文学的その他、錯覚も誤解も独りよがりも、遺伝や経験で、てんこ盛り。
大したこともなさず、ゆえに大したリサーチ、プロファイリングもなされぬゆえ、自他共にやみなべ。

二人称も、こちら側からは一人称の敷衍型だが、相手様側からは、渡って来た狭い世間も、われはせいぜい変わり者の小者で、量質ともネグリジブル。
重厚長大、エッジのキレすぎダルすぎが嫌いな己にはちょうどよい。

三人称も、膨大狭隘浅深すぎておぼろ。
まあ、無知の知、知るをもって云々知らざる云々これ知るなりからすれば、いまのおぼろげを続けていくほかなし。
日々そこそこ学んでいくと、そう変にダイバージョンしないかなんて、自惚れもちょい残ってはいる。

自分でも、人様でも、こういう構図にはなっていると思えど、人様参照も大事。
いつも話題にする江藤淳氏や吉村昭氏の生きざま往きようは、一人称と三人称のコントラストの強さで、人生の不思議を教えてくれる。
別に骨太の文人でなくとも、たかじん氏なども形は違えど、そういうディスクレパンシーを如実に示された。

ご存命の西部邁氏なども一人称と三人称を老いの一徹で取り纏めようとされているかに見えるが、世代の違う人間からみるとかなり痛々しい。
彼がよく登場する桜チャネルでは、社長のお気に入りゆえすっかりヒールになり、MXTVの西部セミナーでは幅広い受容力を示し最近の鳩山由紀夫氏までゲストに登場させている。
すでに終ったがBSでの佐高信氏との対談は、噂で聞いたことのある京大人文研での会田雄次氏と井上清氏の茶飲み話風景が本当にあったのならばこんな風だったのだろうか、と思わせるような奇妙なハーモニーを奏でていた。
奥様様が亡くなられてお辛そうなのがヒシヒシと伝わってくるが、男はそういう生き物だ。

さて、人様の人間動物園を続けていてもキリがない。
もう肝心とは思わぬが、まあドッペルゲンガーがまとわってるお前さん自身がテーマだろ。
往くまで二心同体だし。

この頃は、養老師の教養とは他人のことがわかることという教え、自称インテリジェンス専門家が国策捜査にかかること等々を踏まえ、その他二人称をネットでも最小限に抑えて、三人称的世界を読み込んでいくことにつとめている。

めぐるめぐる季節の中で、千春も変わる、宗男も変わる、優も変わる。
師の虫好きは変わらないよう。
さて、オイラは。
カウントダウンの中で~♪

2015年9月14日月曜日

太陽がいっぱい

もう陽光は十分。
十分すぎて眩しい。
朝は太陽が低いので逆光はdriverにつらい。
ひとつ間違えばひどい事故になりそう。

右折の際にそのspotにはまった。
後ろには同じく右折しようとする車。
止まるわけにはいかず、おそるおそる大丈夫を確認しつつまわる。
大きくクラクションをならされる。
後ろからのものか?、信号変わり目ゆえ他からもありえる。

冬はホワイトアウト、豪雨ではワイパー最強でもさも似たり。

太陽も、水も、命に必須といえ、TPOによっては瞬時に抹殺のtoolとなる。

アラン・ドロンが、富豪の息子で自分をめし使いのようにあしらう「友」を豪華クルーザーの中で殺害し、このヒースクリーフ氏になりすます。
あっというラストシーンと甘い主題歌が忘れられない。

わが幼な馴染みもさも似たり。
社長の息子で、小さい頃からよく遊んだが、いま思えばずっと船上状態だった。
人生一回りして、こういう関係に気付き、少々突っ慳貪にすると、妙に酔って絡んでくるような雰囲気の賀状などを送ってくるので、よりはっきりと示すと縁が切れた。
太陽も肌にきつくなると、敬して遠ざけることになる。

今回の水害も急峻だった。
これからあり得る地震も緩くないだろう。
国際関係も、安全保障だけでなくシビアな予兆。
実際も現在進行形で動いている。

敬遠ばかりでは、動きが鈍る。
冒頭の交差点エピソードを経験して、帰還直前に、後ろから煽ってくる車が、猛speedで追い越して行った。
Uターンして戻ってこれない距離で思い切りクラクションを鳴らして抗議し家に戻った。

太陽もいっぱい、riskやstressもいっぱい。

自分の取説

すでにモジュールは陳旧化している。
したがって軸組からツーバイフォーなんてことにはならない。
建前なら壊してできるが、人間は生身ゆえブルドーザーで壊せない。

しかし、スペックが劣化しようと、型古パソコン の如く、ああでもないこうでもないと使うほかない。
だから、焦れない、急げない。
スペックの弱いのに、無理な負荷をかければフリーズするは、それを越えるとHDが終わる。

それを承知しながら、年をとればとるほど、スペックが劣化するほど、イラチ、タンパラになる。
PCならぶん投げてやろうかだが、年寄自身ならジジキレ、ババキレとなり、ろくなことにならない。
根に自愛心、隠忍自重があれば、まあがまん、適応が肝要。

各論的には、時間管理、労力適正配分、年寄型技術革新の模索等々がレゾルーションになるわけだが、容易でない。
ろうたけると、弁解がうまくなり、サボることを合理化し、なかなか短いだろう余生の料理に長けるようにならない。
また、年取ると級数的に時間の流れが速くなる。
しかも、時代は老若男女、時間に追われる現代。
ルチーンに乗っかれば、瞬く間に過ぎていく年月日。

このように、ああでもないこうでもないと言い訳に汲々としているこの作業自体が、言及を実現するようなもの。
さてどうしようか。
要見切り千両。

しかし、見切り千両といっても、実はいままで見切り千両の経験もなければ、成功譚もない。

結局、生理的範囲内で登場するドッペルゲンガーの、おいおいもうちょっとこうしないとヤバイんでないの?こうした方がいいんでないの?って声に従うほかないんだろうな。

困った他人様や組織も取り扱いに困るが、自分の取り扱いって困るのよねえ。
まあ、しょうねえか。
色即是空、空即是色、、、。

2015年9月13日日曜日

見えるか、見えないか

ある美人が、わたしは自衛隊が犯罪的な存在だと思うので、被災しても助けてもらうより死んだ方がましだというTwitter書き込みがあった。
その他のツイットも中国マンセーの、しかも常軌を逸したmodeの書き込みである。

そのうちこれは架空人による書き込みだという指摘がネットに流れた。
某FM局にはプロフィールに該当する人間はいないと。
指摘子は、ネトウヨの仕業だと。

これが右よりの人々が蝟集するサイトに行くと、左の連中の工作だといいつのる。
これを確実に証するデータ提示もない。

ネット放言で、特に犯罪に即該当するように思われない類ゆえ、警察も動かず裏もとれない。

まあ、ホンモノの工作員ならこのような直截な露骨なむちゃくちゃな手法は普通使わないだろう。
ゾルゲもコミンテルン、ソ連のスパイだったが、ドイツの特派員で密かに日本の中枢に浸潤していった。
ヨシフ君も、名前どおり、コミンテルンの頭目に子分だった親が憧れた息子で、実際に衣鉢をついで共産党員から転じて公然活動家になり、ナチスの突撃隊似の外宣counterの横で使嗾しているのがせいぜいだ。
ここまでお馬鹿な公然活動はしない。
中国だって変にウオッチングされるここまで稚拙なことを工作員にさせない。
つまりは右にせよ左にせよただのふざけにせよ、架空のつぶやきであることはまちがいない。

長いイントロをここまでにして、肝心の見える化、見えない化について語ろう。
ネットだけでなく、この頃の計算技術、グラフィック技術等々の進化できれいな図表や動画が学術資料の分野でもめざましい。
専門知識や自分の頭を駆使することをサボっても、見える、わかったつもりになれる、それを基に次に進もうとする。
しかし、これが8~9割適切、1割捏造、改竄、意図的でなくともオーバーラン等々のキメラであれば、どうなるか?
ゴミ部分がbaseになれば、その上に積み上げられた知見判断予測は、多く、大きく外れる蓋然性が高い。

われわれが直面している様々な問題のどれだけが、このような有り様、罠に関係しているかはわからない。
ただ、おぼろげには読める。
たとえば、サブプライムローンの破綻、リーマンショック。
金融工学の最先端の計算でまず焦げ付かない。
そういって金融工学系エリートらが設計したシステムが見事バーストした。
中国が現在剣ヶ峯を綱渡りしているのも、共産党の捏造改竄による見える化見えない化の複合体が自壊しかけているところが大きい。

このように、人間は見たいものを見たがり、見たくないものは隠したがる。
これを超克するのは至難である。
座頭市さは、「めあきは不自由だね」と呟くが、五感第六感を駆使しても悟ることは至難。
ため息のでるような見事なトリックや催眠術、イリュージョンがあるゆえに、われわれは素面に現実を見つめるというのは容易でない。

2015年9月12日土曜日

たじたじ

rssリーダーに漏れが出て不満だった。
偶然その解決ができた。

表示がスマホ用になっていたのだ。
ところが、その端にある「パソコン画面でみる」のボタンを押せば、従来みていた網羅型の表示をチェックできるのだった。

情報処理に負けている。
ゆえに時間をムダにしている。
無用の用も大事だが、無理無駄ムラで消耗するなら見切り千両も大事だ。

人の24時間は決まっており、使い方を選ぶのはもっぱら本人。
もちろん、制約条件が経済力その他に左右されることはあれど、それをポートフォリオさせるのも本人が選んでいるというところは大きい。

このところそういうところを意識してライフスタイルをトリミングしたり、抜本的な塗り替えを画策もしてみるが、冒頭にあげた気付きのようなことは、焦っても手に入らず、何だかんだやっているうちにわかってくる。
大きなmyパラダイムシフトも、無意識的なああでもないこうでもないの熟成期間の後に浮上してくると考えた方が自然だ。

そんなことを思いつつ、書いておきたい、作っておきたい手作り本のことを、時々思い起こす。
出版事情が大変だ。
出版社も潰れるところが多く、書き手も口を糊のに楽でないとなげく。
もちろん、それでも一人出版社を立ち上げたり、食いにくいところをバイトでうめて書き手としてのidentityを保持しようとする人もいる。
ただ、怠け者の、器用でない、へたれの、はまるとはまる方の自分としては、仕事にしたり、何かで埋め合わせたりするガッツはない。
加えて、商業としても、趣味半分としても、人とコラボしても、ひとり手作りでも、時代の流れ、情報のoverflowが甚だしく、じっくり書いているうちに、すぐに陳旧化する。
斯くして、精力時間speedその他を理由に、うっちゃってしまっているのが、このところの常態だ。

しかし、いまも、古事記だ日本書紀だ万葉集だ源氏物語だといえば多くの読者を持つ。
文学趣味歴史趣味とも薄いわが読書歴でも、徒然草方丈記奥の細道などは愛読書になっており、決して旧いと感じない。

そう思うと、現在のせわしない情報の転変に振り回されないコラム的なところを遺書的な書き物、手作り本を、寿命が許してくれれば、作っておきたいなと思ったりもする。

そんな酔狂なものを製作して誰が読むの。
時間と労力の無駄ではないか。
そう思って発心を棚上げしていた面もある。
ところがひとり熱心な待望者、読者予備軍がいる。
ペットらは字が読めず、与えても噛み破るだけなので該当しない。
誰を隠そう、この私である。
私は特にナルシストではない。
では、何故か?
このところ英書の輪読会で、どうだろこうだろああでもないこうでもないを日々楽しんでいる。
そのなかで、いろいろ言いうるだろうが、ここいら辺りは間違いないだろうが、そっちは正直に不明というのが正しいのだろうな。
そんな会話を、人生の黄昏で勉強会の時間のほかの自分としている部分がある。
人とのdiscussionがフレイミングか、カルトセクト的協賛会になる弊から身を引くというだけでなく、やはり言い切っておきたい、それを自分でアプリシエイトしてから生物から静物に化したいという欲求があるようである。

多事争論にたじたじとなりつつ、多事小論にまとめたいという欲望。
わが能力、時間、運命が許せば可能。
ムリなら、ほとほとまとまりのない人生という御神籤の答ということになる。

2015年9月11日金曜日

秋の怪談

ピンポーンが鳴り、monitorの向こうにはババジジの二人組。

国勢調査だと云う。
開口一番、異なことをおっしゃる。
「間違った宛の書類をポスティングしたので回収させて欲しい」

わが応答。
「不自然なんで、そうなら国にでも地方公共団体にでも、こちらから直にお渡ししますから、お帰りください。」

オバサンは引かない。
このところなりすましの詐欺も多く、開口一番誤投入など不自然で信用できぬとのわが言に、これこの通りと首からぶら下げた身分証風をmonitorの向こうでいじっている。

「そんなもんこの時代にいくらでも偽造できるし、ホンモノか自称不明のNHKやら、町内会長のマル適もらってるとこいて消火器だなんだと押し売りに来るのもいる。わしゃあんた知らんし真正性を確認できんから悪しからず。お帰りあれ。」

オッサンは家の表札あらためてすがめて「弁護士か、、、」むにゃむにゃと言いながら、去っていった。

ホンモノなら担当部局に郵送なり、ついでに持参なりしてやろうと外回り時に玄関みると、ない。
ウソ。
ホンモノでも、詐欺師でも、釣りであったことは間違いない。

まあ、なりすまし詐欺師、押し売りの可能性もある。
いまや、こういう行政対応、施策実施というニュースが流れたら、即詐欺approachが涌くという時代。
否定はできない。

駄菓子菓子、「ホンモノ」で次のような可能性が高いと思っている。
上述したとおり、いまや子供でも、少々認知症気味の高齢者でも、自己防衛リテラシーがあれば、わが対応に近い猜疑心でホイホイ乗ってこない。
privacy理由で、ピンポンlevelではじかれる。
だから誤投入のような姑息なウソで先ずは玄関を開けさせ、その勢いでこれがホンモノ、貴方の分と押し付けて帰ろう。
そういうあざとい戦略の可能性が透けてみえる。

なぜなら、ピンポンも押さず、説明もせずいきなり守秘性重要とされている用紙を投入するなどというstoryの不自然さである。
実際にrejectされることの多さに辟易しての苦肉の策かもしれない。

それにしても困りモノ。
曲がりなりにも公務を受託した調査員が、理由はなんにせよこのような欺罔的手段を弄して業務を行っていいのか?

実質的な金銭的損害が出ずに詐欺罪に該当しなくとも、許せないと思う住人に住居不法侵入などと指摘されてもしかたのない行為だ。

正当業務行為だと強弁しても、適正な手続きを経てはじめて個人情報の徴求を正当化できる仕組みだから通らない。

自分なども、今年からネットで回答可能と知ったゆえ、来たらネット回答を心づもりしていたが、こんなホンモノかなりすまし詐欺師か不明の人士らが持参する用紙に記載しているパスワードなど、fishingの危険大となれば、対応が困難になる。
国勢調査には、拒否にサンクションも用意されているが、こんな現状ならば正当な猜疑心として正当化できると思う。
しかられたら、そういうデュープロセスで当局の見解を聴きたいと思っている。

かくの如く、時代に合わないトンチンカンな作法、システムは、デファクトのlevelで動かなくなってゆく。
経済だって、教育だって、治安だって、国防だって、こういうレベルでの手当て、目配りができないと、実効的なアウトカムが得られず、混乱を増幅させるばかりとなる。

このオバチャンオッチャンが詐欺師なら、なにやってんだバカ野郎という気持ちだけでなく、こんな犯跡の残り易い形で何をどうgetしようとしてるのかわからないが、すぐにバレちゃうよという気持ちにもなる。
ホンモノなら、なり手の少ない時代に、ほまちフィーでしかも詐欺師もどきの手法がと叱咤激励どころか厳しく論難されかねないのに、ご苦労様と言いたいが、言えない。

世は、安保法制で理解力に乏しい若者やそれで味をしめる組織が騒いでいるが、そのかげでマイナンバー、消費税増税など国民を丸裸にして、ギリギリと搾り取るというわが国風の超限戦も粛々と進められている。
是々非々論者、最後はわが国に合ったおとしどころ模索論者の自分としては、結論的には已む無いと思えど、かくのごとく、都度都度の怪談講釈は死ぬまで演じようと思う次第。

それぐらいしかできんもんで。

2015年9月10日木曜日

だって当たり前じゃない~♪

はやい夕食をとるとササッと眠くなる。
聴こえるか聴こえないかでBGMを流すと、脳も末梢も落ち着くのかスッと寝落ちする。
コッコがベッドにしている安楽椅子に上がってきて、就眠儀式をせがむ。
乳児の母親の如く、窮屈と平安のないまぜでまあ心身のチューンナップはできている。

そして自然に覚醒した後は、もっぱらスマホやtabletを数台とっかえひっかえ、alcoholなしのお茶で水分補給しながら、小原庄助的三昧の世界に入る。

ペットの性格がその子その子によって違うように、各machineの性格も区々。
ソフト、アプリの委細も動かしてみると、きっちり同じでない。
通信速度もクラウドの動きも、SNSの動態も、同じものはおなじはずなのに、実際に動いてみると、動かしてみると随分と違う。
先ほどもネット知己のブログをrssリーダーに登録しようとして、登録関連場面にいってみると、ずいぶんと読み漏れがあることに気付いた。
このようにおなじはずが同じでない世界なので、油断ならない。
趣味娯楽ならよいが、仕事や真剣勝負でものを考えようなどというときには、信用ならない。
したがって、素直な自己謙抑というより、疑心暗鬼によるクエスチョンマークで割り引いておかないと大きな判断ミスをしそうだ。

そんなことを思いながら、いつものネット回游をやってみると、どうも見切り千両、岡目八目、メタ見識が要るなと痛感。

まず己のことは棚に上げる。
後でまとめて棚卸しする。

なんでそれほど悪くもない、いや美徳も秀逸さも感じるのに、ここはこうなんだろう。
思いつくままに列挙してみる。

ネットそのものが便利なのに、明らかな間違い、流言蜚語、極端なフレイミングなんぞが奔流になってしまうのだろう。
膨大な情報量が津波の如く押し寄せる、またLINEのようにお互いに狭い世界に押し込め合うのに好適なツールが提供されるようになれば、かくなることと容易にわかれど、そういうものの全くない時代を大半に生きてきた化石人間には、やはりなぜという嘆きのような発問がついてまわる。

SNSなどでは、「いいね」中心でほんわか共同幻想共同体、日頃のstressうっぷんをヨタ会話で晴らしているところに真面目な闖入など行えばフレイミングが起こるのは当たり前かとも思う。

その他 、人がどうしてそのように考えるか、感じるか、行動するかは、DNAだ、生育歴、故事来歴その他諸々がこうだからとプロファイリングしても、所詮最後はトートロジー。
プロファイリング専門家が犯行パターンを解析するように、そこはそうなんだわーというところ以上に行かない。

実務修習のとき、金魚のフンをさせていただいたエリート裁判官に、「何々君はこう言うのですが、ボクはこう思う」と話したときに、「なに言ってんでずか、だからこの商売があるんでしょうが」と叱られた。
男と女のあいだでなくたって、深くて長い川はある。
えんやこらなんとかしようとしてならねば、上下左右、体制反体制、多数派少数派、改革派守旧派、性質決定のできないトラブルまで扱うのがこの仕事だ。
そこそこ年食って卵になってもまだわからんか!の教えであったわけである。

養老師のご指摘どおり、人は自分にひいきする。
だから、自殺者よりも日々生きようとする人の方が多い。
上述のようにトラブルでバッシングされるのが自分であれば、自分で自分にそこそこのハンデを与えてやらないと、ラウンドする気力も萎えてしまう。

そういうことで、先ほどはひとまず棚に上げて棚下しすると言ったが、とことん棚から下ろすと生きていく勇気がめげそうだから、そこそこ自分にハンデを上げて自己言及する。

相互異見性は、人間の相対性原理のようなもので当たり前。
逆に、無理やり一色に塗ろうとするのは、全体主義で危ない。
ネットの誤謬やカルトセクト誘起性は、副作用、特性として承知する。
フレイミングは敬して遠ざけるが、高須clinicの院長の如くそれが余生の肝と覚悟すれば面白いことはわかる。

まあ、ノイズやバカな手合いの妄動を引き起こすより、スパムは無視が最上の対応策といわれるように摩擦係数、リスクの小さい対応が賢いといえば賢い。
それでも、以前からフレイミングまではいかなくとも不毛な応酬を繰り返してきたかのネット知己と、まずまず相手のプロファイリングを踏まえてまずまずの交流ができることもあり、要は自分や相手に合わせたカスタマイゼーションの問題だろう。

徒然草に、打てば響く共感性の高い友のあらまほしさが書かれてあるが、容易でない。
経済的利害対立やイデオロギー対立をまぬがれても、人の嗜好性というのも難物である。
お追従を装いあっても、腹の底では黒い憎悪が渦巻いているということも少なくない。
結婚が、親子が、兄弟が、その他近場がこれで、少子化という面も小さくないように思う。

うまくいけば疎通性よく、距離取りもできて、ホンネも通じ合える関係は可能であろう。
吉田兼行も難しいながら希求するというのは昔から美徳のモデルとしてあったということだ。
わが胸襟開く朋輩は、少数の人々と、種を超えてワンワン連中だが、先般も書いたとおり、ちょいと気を許すと引き摺り倒される愛情で結ばれている。
万物の霊長が取り仕切る環境で生きているゆえ、責任を取るのはわれのみ。
その責任も難しい時代。
質の向上のスローガンのもと、諸々の劣化が激しいこの頃。
「責任」の取り方もむつかしい。
国際情勢、経済情勢、諸組織の動態、状況倫理、その他みても責任論もまとまらず、責任をとるという定義、語義すらさすらう時代。
責任を、責められる任務と読めば、わんこに引き倒されるのがわが責任、脳挫傷で飼い主が死んだら屠殺されるか、脱走して車にひかれるか、家で餓死するかが、この子らの責任。

まあ、わが当たり前がこの辺りだから、自称六無斉もどきがちょうどいいかもしれない。

2015年9月9日水曜日

アニミズム

ちょいと思った話。
妄想と言ってもよいかもしれない。

われらはアニミズムの民であるといわれる。
国生み神話から、近代的工場マシンにモモエちゃん、セイコちゃんなんて愛称を付けるまで、生物以外にも心のごときありさまを見いだす傾向を持つ。

今朝ふと考えたのは、岩石のような静物にも精神のようなものがあるのではないかということ。
無機的にただただ変わらないという のでなく、スケールの大きい空間で 、われわれ個々には想像しがたい時間のなかで、解体し凝集し循環し「いま」の構成要素を作っていく。
福岡ハカセが生物で語る動的平衡のようなシズテムの遷移話を、非生物の動きの乏しそうなところにも強く感じる。

われわれのいま生きているようなテクノロジー進化の痕跡は発見されていないが、この先に人間の文明が自滅で終わるにしても、乏しい想像力で想像するだけだが、星間衝突で地球が木っ端微塵にでもならない限りない 、また再び似たような歴史をrefrainするのだろうか?

アニミズムっぽいムードでみるなら、地球なんかの物質系の魂は太陽あたりにあり、ここ地球はその支店、末梢の如く動いているのだろうか?

まあ、季節は秋。厳冬のシベリアっぽい冬をサバイブするようには予感しないので、しばらくでばらばらの物質に変身するだけのことであるような自覚で居座っているのだが。

風吹かば倒る

庭でわんこといつもの一時を。
そう思って外に出て、あやつらに引っ張り倒された。

狭い庭も裏に回れば玄関も見えず、不用心ゆえ鍵はかける。
シリンダーを回すのに集中していたら、強い引力で引き倒された。

走りたいばかりの彼らの力は、相当のものである。
まだ普通の態勢ならば重力に抗すことはできるが、彼らの牽引力が加わると勝てなかった。

幸いケガなくすみ、たぶん慢性硬膜下血腫は大丈夫だろうから、今度からは先にドッグランに放り込んで鍵をかけようかと思っているが、油断も隙もない。

こっちが手綱を捌いて支配しているつもりが、ちょっとしたタイミングでnature teach me.
すきあらば、自然の力が、君を試すかの如くに教育的経験を与えてくれるのだよ。

ペットならばわずかに教育も可能な部分はあるが、大きな自然の狼藉には逆らえない。
そういう場合は、シンクロして倒れるしかない。
このところ人間が地球上でなしている諸々がろくでもないと感じているので、パスカルのように考える葦であるなんぞと能書きをプラスして倒れる余裕はない。

まあ、危ねえもんだよ注意しな、の教育的メッセージを天より受けたとして新規巻き直し。

でも、後に支障がなければ、ぶっ倒れるときに、ありゃーいかんいかん・・・・・
ああやっぱり倒れた、というmomentって悪くはなく、ある意味で気持ちいいのね。

2015年9月8日火曜日

ゲリラ豪雨

このところ晴天が続いているが、しばらくまえは驟雨、雷雨がときどき襲ってくるような天候だった。
ゲリラ豪雨と呼ばれるようなキツそうな急変ではないが、一応ピクっとはなる程度の急変。

さて、天気の話でなく、このところの世相。
外回りの車窓から、コンビニ店がつぶれて、不動産屋の広告看板がついているのが見える。
ほんのしばらく前、盛業に見えていたのが、厳しい。
近所にも、「自分等もいつまでもつやら大変だねえ」とよその閉店の話をした店長のいた別系列のコンビニも、しばらくしてつぶれてミニ宅地分譲に変じた。
コンビニも、どこもギリギリの競争で、フランチャイズ契約の期間を満たす前にこのような姿となるところが多い。
すべての資産や担保を差し出して、なんとか破産しないで足抜けするのがいいところと想像できる。
そういうのを知ってか知らずか、新たにオープンする鴨さんもつきない。

ミニ宅地開発だって、オーバーローンで愛するマイホームをチャラにもできず借金抱えて手放す人も少なくない中で、ちゃんと売れるよう。
結構見映えのする車を駐車する新居住者の風景もみえる。
世は当たり前のことだが色々。

しばらくいくと、コンビニならぬ病院の玄関に、テナント募集の張り紙がみえる。
知らぬところではない。
クリスチャン風の名前がついているが、結構あざとい診療をしていた。
院長はレスピレーターやペースメーカーの装着に余念なく、スタッフにもボーナスボーナスの元だからと掛け声をかけていた。
子供らは内地の医療系進学の歩留まりのよい学校に入れて、事業承継にもおさおさ怠りなしとみえたが、急死。
病院はミニチェーンのやり手理事長の枝となり、当時のニュースにもなっていた。
それから数年。
吸収した母体はこけていないので、ベッド数だけ調達できたら箱ものはM&A後スクラップの扱いでいいのだろう。
元院長の遺族にどういう処遇があったかは知らず。

中国の経済がーとか、欧米がかくのごとく苦難とかいうものの、わが国のもろもろのなりわい状況もただならぬ相貌といえばかくのごとし。

内戦に近いスラプスティックが中国内に起こりつつあるといわれるが、報道管制下でも経済破綻による自殺者が急増しているらしき話も耳にされるし、欧米もこれらに共依存しているゆえに特効薬もなし。
考えてみれば、我らもさも似たり。

雨はやんではいるものの、塹壕のごとき塒からよしの髄を覗けば、みえるは一応の晴天。
次の晴天の霹靂にはいかがいたそう。
まあ、いい答がないゆえにこうなってるわけで、嵐の前の静けさを風流にすればいいのだろうが、貧乏性でできずいかんねえ。

中ぶらりん

当地の言葉で「あずましくない」というもっぱら否定系で使われる方言がある。
どうも落ち着かない、しっくりこない、安穏でない、そういう座りの悪さ感を表現する言葉である。

ライフスタイルからすれば、セミリタイアであるので、もうどうしなくてはという気がない。
少しまえは、どんどんとこの世への執着をそぎおとしていって、フェイドアウト。持たなくなったところでハングアップしようと決めていた。

ところが、そういうつもりでも、見れども見えずの諸々が見えてくると、そうもいかぬかなと思うに至る。

スムースにいっても、余剰の歳を生きるのは楽でない。
認知症の診断をいただかなくとも、中枢も末梢もおちていくばかり。
もともと、こちらがうまくないは、あずましくないはに、ご近所から国際情勢までパラレルだから、楽隠居なんぞ毛頭望むべくもないはもちろん、こりゃわしがburstするか、この世がburstが先かの競争だなあという感じ。

まあ、そういう時代には、ひとの不安につけ入る商売が繁茂し、こうすればよしのポートフォリオが喧伝されるが、そんな特効薬があれば、こういう風にはならない。

ということで、セミリタイアの牧歌的指向を捨てて、まあカタストロフィーにらみでどう淡々とやっていくかというと容易でない。

もともと帰依する宗教もなく、イデオロギーやその支持母体、組織なんぞが魅力的に見えない体質、もちろんそうであるのは、がむしゃらな立命安心さがしなど救われないだろうというみきりがあるわけで、かくのごとく、ああでもないこうでもないと日々ランダムクオークしているわけである。

今日も、ネットでいろいろと経験。
clientに送ったメールが迷子に。
スパムメールは、頼みもせぬのに律儀に到来するのに、肝心の目途でフェイントがかかってしまう。
9割以上がスパムないしはどうでもよい送り付けられ、1割未満でかくのごときチョンボ。
便利のはずのツールがなかなか秀逸とほめられない。
ああずましくない。

わが生業として、口を糊するフィールドワークとして体験してきた領域。
医療事故調査制度が具体的にstartする前に、方々から声が聞こえてくる。
別にいまに始まった話でなく、自分が知らずに足を踏み入れた20年足らず前から、理屈で言うようにならんのねと右左から思い知らされたありさまである。
最後は存在そのものが地雷のごときclient、patientに塗炭の思いを何重にもプレゼントいただいた。
まあ、鵺の立場できたゆえ、そのこと自体の曖昧性を、自分が指弾のtargetにしていただき味わったので、まあ安くない授業料、人様から口を糊するresourceをいただくのは、こういうリスクも甘受することなのねという摂理を身をもって拝受もした。
そういう身で、SNSでfollowしているactiveドクターたちの言いたいことも、素朴にはわかるし、逆にわかれど自分の踏んできた軌跡と、自分が参照枠としている社会科学的目で検討してみると、通りそうなところと、無理筋がみえてくる。
賛同してよいところと、下手をすると贔屓の引き倒しになりかねないところを気にすると、婉曲な言及にとどまる。

さきほど、医療系のMLで患者側から医療事故調査制度にactiveに物言う活動をしている某氏がシンポジウムの広報を載せていた。
参考にpasteしようと思って引用許可を求めたが、ちょい遅れでclientへの業務mailゴテゴテのあいまに、これも保存先がわけわからずになった。
こちらの登場人物は、もちろんドクター戦闘派の裏返しで、強面当事者、代理人等々である。
もちろん、この間には、厚労省、日本医師会、従前からの社会実験的調査試行の実務家集団からなる一番中心を担う層があり、この立場で開かれたシンポジュウムの質疑応答など読むと、左右の声に挟まれ、やるほかない人々の実務家的物言い、含意もよくわかる。

そんなこの頃、ある医療系の講演会のポスターをみた。
Aiの研究者のこの領域に関連した現状解説だが、略歴をみて驚いた。若い、その領域であまりキャリアを積んでいない。
これはどこもそう。あまり人が集まらない領域はみんなそう。
だから、大きな質の高い構想を法律や言葉でぶちあげても、インフラは絶滅危惧種が担うということになり、結局理念だおれになりかねない。

これもありさま自体があずましくない。
まあ、病人になってみれば、こういう構図とはあまり関係のない自己決定に悩むところが大きく、それも自身が命がかりの病気や事故を経験した身からすると、あずましくない。

一番首根っこが落ち着かないのが、国際情勢であるが、前の大戦前もこんな感じだったのだろうか?
情報社会で対応策も昔に比べ洗練化というか、目の子はつけやすくはなっているが、、インフラのハッキングだなんだとか、サブプライム、中国の隠蔽ごまかしにみえるような裏目も大きい。
右の大和魂声高も左の国際常識欠如もこまりものと思いつつ、若い人がhappyそうでない、老人らが老害を噴出する図も救いに乏しく、これで冒頭に戻るが、セミリタイア根問いではないが、なかなかいいおとしどころが見つからない。

ロシアの文豪が言ったように、誰かの不幸は他の人間が連関しているだろうし、逆に幸せのインフラもめに見えず連関しているだろう。
養老師のいうように、何が起こったよりも、何が起こらなかったということが重要ということもあり、狭い家内安全というより、自分が起こさないですむことを起こさないと、今日も生きてみるか。

2015年9月7日月曜日

見れども見えず

せまい庭でワンコとくつろぐと、せまくても生態系がみえる。
日陰には羊歯類が繁り、日当たりがよくて踏まれない場所は伸び伸びと背高雑草が突出する。
歩いてみると、blindで蒔いてみたハーブの匂いが漂ってくる。
殆どが野草で、野草の知識の乏しい人間にも、五感でいろいろと住み分けている様子がわかる。
こういうこともやっと最近になってわかるようになった。

話は変わるが、故郷の同級生が高校の同窓会誌をlinkさせていたので覗いてみた。
校長氏の話を読むと、なるほどという現実が明かされていた。
学区規制が変わり、県庁所在地にまで受験可能になった。
いままで母校に入学していた層の4割が流出するようになったという。
受験ランキングだけがすべてではないが、基礎学力等のいわばインフラがゆらぐときつい。
地域創成にはマンパワーは必須、悩ましい。
こういう論旨には、なんのなんの、昔から大学受験となれば多くは遠く離れた地に散っていったではないかという反論もできるが、それでもいまの母校の生態系がそうなんだと知るのは、自宅の庭の如く定点観察していないだけに、俺らの頃はなんぞと簡単には云えないなと自覚。

自分の尺度でしか見えないというのは、わがことのみにあらず。
strong ネットワーカーの田中秀臣氏が、Twitterでreplyが脊髄反射的でかなわんとぼやいておられた。
いくら説明しようが、simpleに頭にはまりこんだ常同的反応が延々と続くのみ。
池田信夫氏は、自分に気に入らないreplyは、このゴキブリめ!と呟きながらブロックして、極々穏当な批評やadviceをしてblockされたよというわがネット知己に悪評サクサクだが、田中氏のぼやきつつも応答している姿の方が数段上品にみえる。

同じTwitterで、反安保活動をしている青年が、中国から攻められたら無抵抗で対するとして、保守派だけでなく、方々から嘲弄されている。
南シナ海や尖閣その他への帝国主義的膨張活動だけでなく、チベットウイグルでのジェノサイド的蛮行、天安門どころか文化大革命でも膨大な殺戮の犠牲者を出してきた支配集団である。
やむなく非暴力的抵抗で虐殺されたり、自殺を余儀なくされている図が転がっていて、これなども見れども見えずならぬ、見ざる聞かざる言うだけの体たらく。
大人で反体制利権やしがらみで、わかってやっているのも困ったもんだが、昔なら元服をとおにすぎ、大学にいってもこれなども、文科系だけでなく、肩書だけの大学なんぞ潰してもいいような気もする。

なんて、言ってはならぬことの重畳の気配。
黙して、今日も定点観察に入る。

2015年9月6日日曜日

どないだ?

ほんの半月前までは暑い暑いとぼやいていた記憶がある。
この頃は、寒いまでいかないが、涼しい過ぎるくらいまできた。

ということで、早朝カフェのcoffeeが美味しい。
散歩から帰って、いろいろとアレンジするのが面倒となると、朝のセットはありがたい。

日曜日はスーパーなども少し前倒しオープン。
クラウドに入れていた買い物メモを参照してround。
併設の百均で安価調達。
スペック的に使えるものでないといかんが、安価が売りの通販価格の十分の1で調達できるもの多々。
あほらし。

まあ、こんな時代なもんで、こういう現状無視した体のお題目のごときは、左右上限radical能天気問わず即時却下。

さて、難民も歩いて目的成就らしくご同慶。
来られた方は大変。
日本のお気楽諸氏は、人質事件で難民支援にいちゃもんつけ、今時は日本政府は難民救済に手を挙げないのかと。
何はともあれ、お気楽極楽でやっていける平和をことほぐ。

2015年9月5日土曜日

アフォーダンス

エレベーターに乗っていると、ハエが飛んでいるのに気がついた。
高層ビルに入ってくること自体がなかなか大変だろうに、その奥のエレベーターに闖入できるのはまあ容易でなかろう。

様子をみていると、特にパニクるわけでもなく淡々と旋空している。
小生以外ひと気のないところに入り込んで来たのだろうが、残されたらどうするのだろう。
まあ半日もすれば誰かの後ろを飛んで外に戻れるだろう。

ところでアフォーダンスという言葉がある。
環境が動物に与える「意味」のことである。
affordとは、与える、供与する、ゆるされる等々の意味を持つ言葉であり、われわれ生物は音、光その他環境から与えられる情報に感応して生きている。

小さなハエにとっては、人間が数人乗る小さなエレベーター空間でも、膨大な空間だろう。
それでも飛べば一瞬で天井にも張り付くことができる。
飛べもしない閉所恐怖症の自分にとっては気持ちのよくない狭隘な空間が、ハエにとっては結構と縦横無尽のゆるされるテリトリーにはなっているだろう。

ところで、同じ類いのハエ、アブなど、開けた窓から訪問してくることがよくあるが、エレベーターのハエのように元気でなく、窓ガラスやその近くでビバークしているかの個体をみつけることが多い。
同じ種、似た種でも、個体か、TPOか、バラエティーはある。

これらを、我らが人間の話に持ち込むと、同じ人間といえどいろいろ。
同じホモサピエンスでも、人種民族でそんなに違うのだというのは当然にせよ、隣近所でもずいぶん違う。
変人の自分はひとまず置いても、風景一見モノトナスな町内会でも、定点観察してれば同じなどでは決してない。
一言居士や一見偏屈でなくとも、あり様の癖というのは長期観察すればするほど出てくる。

ネットなどでも、同じ反対派でも本音がチラッとみえると内ゲバがすごい。
敵とよりも、さも似たりの方が差違が際立つ。
認知症の時代に入っているからか、反帝反スタなんぞ吠えて一昔前にはガンガンとテロった相手と仲良くデモなんぞしている、まさに時代は変わったの風景もみられるが、これは保守派も同じ。
政権党に不満分子がわんさといるのは公知の事実だが、超保守を唱えるグループも内ゲバはまぬがれない。
昨日まで選挙で担いだご仁が、気に入らぬとなって、その後選挙資金の横領だなんだと悪罵合戦。
割に正論と聞いていたチャネルの御大も、これだけでなく自分と意見が合わず袂をわかった若い連中には、悪罵の内容証明を送りつけたり、ネットで見せている姿とはずいぶんと違うよう。

そういう現象をあれこれ勘案しつつ、自分のアフォーダンスにたち戻れば、まあ与えられたこれが総体だ、相対だという以上にあらず。
腐れ親に祖父母殺を教唆された青年の地獄のような背景事情を読んでも、祖父母の因果が孫に報いなどといった床屋談義風の心証を排すれば、小説にもならぬあり得たプロットを想像するだけで、黙するほかなし。
おっせかいオバさんで衒うことなくイケイケドンドンできる向きを羨ましくも皮肉に思い出したりするばかり。


2015年9月4日金曜日

ないない尽くし

ワンコの服がなかなかできない。
一番はわがトポロジーセンスの欠如。

2次元でもしばしば方向音痴を発揮するのに、3次元になると頭がグチャグチャになっていくのが自分でもよくわかる。
もちろん、試行錯誤を重ねていくうちに目的に近付く実感もあるので諦めない。

人間の才能なんて不思議なもので本人の目論見を越えている。
サバン症候群の方々は、瞬時に細密な風景をキャプチャーできたり、日にちを易々と明かすことができる。
症候群とついているのは、自閉症だアスペルガーだといわれるように、上記の資質がすごくても、知的障害、病的なありようとされているからだ。
確かに、ある資質、能力が突出すれば、その裏で看過できないバランス失調や困り事が生じるということはある。

話を凡庸な自分に戻して、六無斉もどきを自称しているくらいで、ないない尽くしの人生には慣れているので、またひとつあれがないこれがないを痛感しても、別にそれほどのdamage感はない。
こだわることにはなかなか諦めないというないもあって、しぶとくトライを続けることも多い。
下手の横好きもあれば、好きこそものの上手なれもあって、まあしぶとくやっているうちに答や方策、ささやかな向上も浮かび上がってきて、最低限のものに成っていくことも少なくない。

この歳になって、こういう類いの性格を帯有する課題には、われにふさわしい作法があるように思えてきた。
一言で言えば、つかず離れず。
あまり熱を入れすぎると、stressが高じて嫌になる。
かえって進捗習熟を遠ざけることになる。
逆に、放擲しない。
ウサギと亀ではないが、ボチボチシコシコ労作しているうちに、ブレイクスルーしていることはよくある。
懸案事項をいつも考えているうちに、煮詰まって実質着手30分で仕上がるなんてこともある。
カンニングペーパーを必死に作らなきゃとやっているうちに、完成したが、要らなくなったという経験は多くの人が持っている。

ということで週末はお針子さんの日々になりそう。

2015年9月3日木曜日

当たらずといえども遠からず

ドクター画伯にいただいたお友達のessay集読了。
画伯の医大時代の美術部の先輩で、筆者もドクター画伯なわけであるが多趣味。
カジノ好きでマカオ、ラスベガス、ヨーロッパ各地と世界を股にかけるアマチュアギャンブラー。
還暦前の五十代で取ったという免許で異国を走る。
学生時代に苦学されたという反動か?
若き日の塗炭の苦しみと、老境に近付いてからの三昧のcontrastが際立って対照的だが、戦後間もないところから成長した世代にはよくあること。
勉強家の血筋らしく、東大を出て弁護士をやっていたお兄さんが五十代で医者になろうと発心、56で医者になったとか。
医学雑誌でその方のessayをずいぶん前に読んだ覚えがあるが、ずいぶんと酔狂な、医療過誤訴訟などやったことないのかしら?なんて思った記憶があるが、自分も酔狂の末席に居れば偉そうなことはいえない。
このご兄弟に限らず、やってみたいとなったら人間そちらに向かってしまうものだ。

話は自分のことだが、いまアダムスミスの「道徳感情論」を読んでいる。
スミスは、われわれの好悪や正邪の感覚について、いかに共同性が持てるか?と丁寧に考えている。
このところのネットなどでも、大学教授が政治的意見が違うからと叩き斬ってやるなんぞと露骨な憎悪を示して話題になっていたが、昔の安保闘争でも内ゲバで対立党派をウジ虫などと呼んで、実際に暴力で殺害するような事件がくさるぼどあった。
スミスは、このように人が人を憎悪することも様々な事例を挙げて、ああでもないこうでもないと考究している。
実際に政治や経済という公共性の強い活動が、シンパシーやアンチパシーといった個人のありようから集成され、しかも矛盾や合成の誤謬に満ちていることを想えば、原理論的にとことん考えてみようというモチーフ、考える人の姿はよくわかる。

同時代を生きたカントは「純粋理性批判」で、論理的営為について突き詰めている。
アンチノミー(二律背反)という言葉で、物事はstraightにおさまらないことを、これまたああでもないこうでもないと延々と考究している。

スミスやカントは、近代合理主義をアプリオリに掲げるのは如何?と、その根拠にしっかりコンクリートや鉄筋を流し込もうとしたが如くである。

話はわが事に二転三転。
先程ネット知己がアップしていた、哲学的コラムにコメントした。
彼の科学的哲学的言説の無根拠性の説明を読んでいて、スミスやカントを思いだし、自分があまり知りもせぬ量子力学や宇宙論、観測問題や小保方事件に思いをはせた。

科学もかなり限界に来ているとみる向きも少なくない。
部分部分により深く斬り込んでも、それをインテグレートすることなしに進めていけば、観測問題や情報のoverflow、検証自体の真偽不明その他眉唾の理由は様々と出てこようが、大きな壁に逢着しよう。
養老先生がおっしゃるように脳に脳がわかるかと問えば、原理的に無理かもしれないということがあり、五感第六感でも錯覚もあれば、素粒子や宇宙の話など検証不可能、時間論など入れればわけわかめ。
もちろん、テクノロジーで間違いなく、これこの通りとなれば、一応そのとおりらしいねとするが、カントのアンチノミーではないが、物理法則の数式だって、TPOがこうなら成り立つというだけで、臨界点に縁遠い狸の置物はいつまでたっても置物で、核反応で変換されて出てくるはずのエネルギーも徳利のなかに永遠に入ったままである。

まあ、テクノロジーによる検証は別として、われわれの日常は不可知に親和性の強い発想では遣り繰りしにくい面があるので、森鴎外が小説の中でいった「かのごとく」に生き、シュレジンガーの猫っぽい発想かどうかは別として、確率論とそのオッズをフィードバックではっていくというプラグマティズムぐらいしかないので、そうするのが普通だ。

これも激変性易変性の強い時代、あたりはずれの分かりにくい固有性が強く再現性の乏しい問題では、さはさりながら究極的にあたしゃこっちとするほかない。

人間、energy・時間一定の法則に縛られ、浅く広くと深く狭くがトレードオフなら、虚心担懐に己の能力で考え調べ人様とも意見交換して、まあ自分にはこの辺りかなあとするほかない。

さて、わが臆見、当たらずといえども遠からず、そんな当たりもどきと外れがどれだけあって、それはどの辺りか?それもよくわからぬ頼りなさ。
でも人様のご意見に引きずり回されるより、これがいいな。

2015年9月2日水曜日

ええじゃないかええじゃないか~♪

エンブレム問題には、もともとartに興味の深まらない性格から、騒ぎを傍観するばかりだが、法的なことども、人の動きには興味はなくはない。

先日彼が助言したとクレジットの入った医療系研究会のポスターをみたが、ペコちゃんが使われている。
その質感から、このご仁はパロディー作家のようなものかと気付いた。
不二家の同意があれば別に問題はないのだろうが、パロディー作家は知的財産権訴訟の当事者によくなる。
美術に限らず、例えば替歌なんぞでは本家の忌憚に触れて禁を伝えられてもやってしまったりで緩くはない。

ところで、この件で理研騒動を思い出した。
あちらは発明発見の話だが、トリッキーに花火打ち上げたらボロが出て、その始末に上や下への大騒ぎとなった。
死人まで出て、飽きるほど騒がれたあげく、うやむやで燻っている。
ロゴの方は使わないはいいが、法的責任などどう落とし前がつくのかわからないが、オリンピックなんぞも利権まみれのイベントゆえ箱モノ問題と同じく迷走するのだろう。

まあ強くインボルブされる事柄なら結構力を入れて継続的に考えてもいくのだろうが、そうでもない色々についてはどっちでもいいだろうが多数派である。
飢えだ飢饉だの生きるのが容易でない時代でも、ええじゃないかええじゃないかとおかげまいりで空気を抜いた国民性。
別にネット時代だからというだけでなく、人々は一丁噛みで適当に騒いで、適当につきものが落ちて、くそ面白くもない、あるいは楽しみ見つけりゃ結構楽しいじゃんの日常性をrefrainするのだろう。

この頃は、そう感じてええじゃないかええじゃないか~♪よりはtoneの低い、まあいいかでスルーするように推移している。
おかげまいりにどこに詣るって、八百万の国でも信心に乏しいやつがれ、呑もうと呑むまいとフラフラと倒れぬ程度にランダムウオークが気持ちいい。

2015年9月1日火曜日

裏の裏

自分も肉を喉に詰めて九死に一生を得たので、きっと苦しく亡くなったろうと思う私小説作家の車谷長吉さん。
彼は本格的に作家活動をする前に、左翼系の出版社に勤めておられた。
左翼系といいながら右翼のフィクサーから金が出ていたという。
この手の怪しいおっかない人士がなぜそういうものを持とうとするかというと、それを使って総会屋の如く政治家や企業に睨みを効かせることができる。
左の業界というとおかしいが、いろいろとスキャンダルネタその他を集める情報収集マシーンとしても使える。
車谷さんの小説にも、そういう生態が書き込まれていて面白く読んだ。

SNSで紹介した某プランナーのBloggerが、今回の国会前デモについて、戦後左翼根問いをするなかで、プロ市民に中国から資金が出ているなんていうのは陰謀論だと書いていたが浅い。
車谷さんの勤めていた新左翼風の出版社に右翼の金が出ていたなんてよくあることだ。
運動資金なんて露骨にマンツーマンで渡すより、バックに流すのが通常だ。
今回のデモに限らず、車両や旗の使い回しでどこのご一統さんかよくわかる。
そのバックに組合費だけでなく、カンパやなんやと別の工作組織から金が回る。
菅直人が首相だったころ、国会答弁で口を濁しながら逃げ回った政治資金もその手の色がギンギンについていた。

こういうのは政治だけではない。
医療などでも、このところ医者は弱い。
裁量や職人的自由は減りながら、なべて管理職扱いゆえ、看護師のように組合的庇護にも乏しい。
god handならずとも立ち去り型のストライキで若干のresistanceは可能だが、芸者置屋のよう前借り金で縛って員数揃えしようという流れもあり、過労死する前に足抜けできるかどうか心もとない。
医者が足りぬ量産せよとアジテートしている病院元管理職もいるが、若い医者は量産となると僕らの奴隷度が上がるねとリアリズムでみている。
いまでもその気配ありのところで、ロースクール創設でこけかけの弁護士界の二の舞は必定。
使い捨て、ディスポ扱いの業界に喜んで次世代は飛び込むまい。

医療事故についても、activeは医者のサンクチャリー、immunityを求めるが、リスク管理が他領域でも厳しく論じられる時代に認められる可能性は高いとは言い難い。
車についても厳しくが流れとなってきている。
原発は、航空機は、その他緩くした方がいいというジャンルが見えない。

医師法に異状死体届出義務の規定があるが、これもプロ医師弁護士らが医療事故で外表に徴憑がなければいいのだと一判例に依拠していいつのるが、それは一般診療のミニマムでは外表チェックが要求されるだけで、個別具体的に診療情報を踏まえて診たときにどこまで要求されるかは、そう安直なものではないと思われる。
そもそも、患者側の冠付きのミュンヒハウゼン症候群や医療者のそれ風や虐待、後妻業の悪行など、医療現場とlinkして素朴な医療事故とはいえない、故意の事件も少なからず発生する時代では、医療事故とそもそも性質決定が容易でないところで、議論に無理や破綻が生じかねない。
アメリカなんぞはと出羽の守を持ち出しても、マイケル・ジャクソン事件のように、未必の故意や重過失が疑われれば、しっかり立件される。ピアレビューもきつく、下手をすると業界purgeとなる。
日本でも、それはそうとはいかんでしょうという事件が発生すれば、医師法の異状死体届出義務など飛び越え、虚偽診断書作成罪、証拠隠滅、公文書偽造、他人の犯罪の共犯その他使える法条がてんこ盛りに待っている。
その前に下手を打つと病院が潰れるので(行政処分レベルで十分に)、管理者と現場の医師に利益相反の側面も厳然とある。

といった風に、裏の裏をまた裏返せばいろいろと出てくる。
だから、素直に表と裏をすがめて、自分の及ぶ範囲で考え得心して因果応報を享受するほかない。
そういう表も裏もあまりない結論に到達。