2015年9月12日土曜日

たじたじ

rssリーダーに漏れが出て不満だった。
偶然その解決ができた。

表示がスマホ用になっていたのだ。
ところが、その端にある「パソコン画面でみる」のボタンを押せば、従来みていた網羅型の表示をチェックできるのだった。

情報処理に負けている。
ゆえに時間をムダにしている。
無用の用も大事だが、無理無駄ムラで消耗するなら見切り千両も大事だ。

人の24時間は決まっており、使い方を選ぶのはもっぱら本人。
もちろん、制約条件が経済力その他に左右されることはあれど、それをポートフォリオさせるのも本人が選んでいるというところは大きい。

このところそういうところを意識してライフスタイルをトリミングしたり、抜本的な塗り替えを画策もしてみるが、冒頭にあげた気付きのようなことは、焦っても手に入らず、何だかんだやっているうちにわかってくる。
大きなmyパラダイムシフトも、無意識的なああでもないこうでもないの熟成期間の後に浮上してくると考えた方が自然だ。

そんなことを思いつつ、書いておきたい、作っておきたい手作り本のことを、時々思い起こす。
出版事情が大変だ。
出版社も潰れるところが多く、書き手も口を糊のに楽でないとなげく。
もちろん、それでも一人出版社を立ち上げたり、食いにくいところをバイトでうめて書き手としてのidentityを保持しようとする人もいる。
ただ、怠け者の、器用でない、へたれの、はまるとはまる方の自分としては、仕事にしたり、何かで埋め合わせたりするガッツはない。
加えて、商業としても、趣味半分としても、人とコラボしても、ひとり手作りでも、時代の流れ、情報のoverflowが甚だしく、じっくり書いているうちに、すぐに陳旧化する。
斯くして、精力時間speedその他を理由に、うっちゃってしまっているのが、このところの常態だ。

しかし、いまも、古事記だ日本書紀だ万葉集だ源氏物語だといえば多くの読者を持つ。
文学趣味歴史趣味とも薄いわが読書歴でも、徒然草方丈記奥の細道などは愛読書になっており、決して旧いと感じない。

そう思うと、現在のせわしない情報の転変に振り回されないコラム的なところを遺書的な書き物、手作り本を、寿命が許してくれれば、作っておきたいなと思ったりもする。

そんな酔狂なものを製作して誰が読むの。
時間と労力の無駄ではないか。
そう思って発心を棚上げしていた面もある。
ところがひとり熱心な待望者、読者予備軍がいる。
ペットらは字が読めず、与えても噛み破るだけなので該当しない。
誰を隠そう、この私である。
私は特にナルシストではない。
では、何故か?
このところ英書の輪読会で、どうだろこうだろああでもないこうでもないを日々楽しんでいる。
そのなかで、いろいろ言いうるだろうが、ここいら辺りは間違いないだろうが、そっちは正直に不明というのが正しいのだろうな。
そんな会話を、人生の黄昏で勉強会の時間のほかの自分としている部分がある。
人とのdiscussionがフレイミングか、カルトセクト的協賛会になる弊から身を引くというだけでなく、やはり言い切っておきたい、それを自分でアプリシエイトしてから生物から静物に化したいという欲求があるようである。

多事争論にたじたじとなりつつ、多事小論にまとめたいという欲望。
わが能力、時間、運命が許せば可能。
ムリなら、ほとほとまとまりのない人生という御神籤の答ということになる。

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