2015年9月3日木曜日

当たらずといえども遠からず

ドクター画伯にいただいたお友達のessay集読了。
画伯の医大時代の美術部の先輩で、筆者もドクター画伯なわけであるが多趣味。
カジノ好きでマカオ、ラスベガス、ヨーロッパ各地と世界を股にかけるアマチュアギャンブラー。
還暦前の五十代で取ったという免許で異国を走る。
学生時代に苦学されたという反動か?
若き日の塗炭の苦しみと、老境に近付いてからの三昧のcontrastが際立って対照的だが、戦後間もないところから成長した世代にはよくあること。
勉強家の血筋らしく、東大を出て弁護士をやっていたお兄さんが五十代で医者になろうと発心、56で医者になったとか。
医学雑誌でその方のessayをずいぶん前に読んだ覚えがあるが、ずいぶんと酔狂な、医療過誤訴訟などやったことないのかしら?なんて思った記憶があるが、自分も酔狂の末席に居れば偉そうなことはいえない。
このご兄弟に限らず、やってみたいとなったら人間そちらに向かってしまうものだ。

話は自分のことだが、いまアダムスミスの「道徳感情論」を読んでいる。
スミスは、われわれの好悪や正邪の感覚について、いかに共同性が持てるか?と丁寧に考えている。
このところのネットなどでも、大学教授が政治的意見が違うからと叩き斬ってやるなんぞと露骨な憎悪を示して話題になっていたが、昔の安保闘争でも内ゲバで対立党派をウジ虫などと呼んで、実際に暴力で殺害するような事件がくさるぼどあった。
スミスは、このように人が人を憎悪することも様々な事例を挙げて、ああでもないこうでもないと考究している。
実際に政治や経済という公共性の強い活動が、シンパシーやアンチパシーといった個人のありようから集成され、しかも矛盾や合成の誤謬に満ちていることを想えば、原理論的にとことん考えてみようというモチーフ、考える人の姿はよくわかる。

同時代を生きたカントは「純粋理性批判」で、論理的営為について突き詰めている。
アンチノミー(二律背反)という言葉で、物事はstraightにおさまらないことを、これまたああでもないこうでもないと延々と考究している。

スミスやカントは、近代合理主義をアプリオリに掲げるのは如何?と、その根拠にしっかりコンクリートや鉄筋を流し込もうとしたが如くである。

話はわが事に二転三転。
先程ネット知己がアップしていた、哲学的コラムにコメントした。
彼の科学的哲学的言説の無根拠性の説明を読んでいて、スミスやカントを思いだし、自分があまり知りもせぬ量子力学や宇宙論、観測問題や小保方事件に思いをはせた。

科学もかなり限界に来ているとみる向きも少なくない。
部分部分により深く斬り込んでも、それをインテグレートすることなしに進めていけば、観測問題や情報のoverflow、検証自体の真偽不明その他眉唾の理由は様々と出てこようが、大きな壁に逢着しよう。
養老先生がおっしゃるように脳に脳がわかるかと問えば、原理的に無理かもしれないということがあり、五感第六感でも錯覚もあれば、素粒子や宇宙の話など検証不可能、時間論など入れればわけわかめ。
もちろん、テクノロジーで間違いなく、これこの通りとなれば、一応そのとおりらしいねとするが、カントのアンチノミーではないが、物理法則の数式だって、TPOがこうなら成り立つというだけで、臨界点に縁遠い狸の置物はいつまでたっても置物で、核反応で変換されて出てくるはずのエネルギーも徳利のなかに永遠に入ったままである。

まあ、テクノロジーによる検証は別として、われわれの日常は不可知に親和性の強い発想では遣り繰りしにくい面があるので、森鴎外が小説の中でいった「かのごとく」に生き、シュレジンガーの猫っぽい発想かどうかは別として、確率論とそのオッズをフィードバックではっていくというプラグマティズムぐらいしかないので、そうするのが普通だ。

これも激変性易変性の強い時代、あたりはずれの分かりにくい固有性が強く再現性の乏しい問題では、さはさりながら究極的にあたしゃこっちとするほかない。

人間、energy・時間一定の法則に縛られ、浅く広くと深く狭くがトレードオフなら、虚心担懐に己の能力で考え調べ人様とも意見交換して、まあ自分にはこの辺りかなあとするほかない。

さて、わが臆見、当たらずといえども遠からず、そんな当たりもどきと外れがどれだけあって、それはどの辺りか?それもよくわからぬ頼りなさ。
でも人様のご意見に引きずり回されるより、これがいいな。

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