2016年9月30日金曜日

バカだな~♪バカだなあ~♪

ひと月もしないのに、また建具の動きが悪い。
急いでなじみの業者にチェックを依頼する。

調節してもらったら復調した。
詳細にいろいろと打診すると、いろいろ言い訳がましく説明してくださる。

こちらは特に糾弾型査問型の質問をしていないのだが、向こう様も頻回に呼ばれるとクレーマーっぽい展開を警戒して、腰を引くのはむべなるかな。
いまの時代、ここいら辺りのあやがむつかしい。

こちらもカリカリしたり、小むつかしい問い方が過ぎると、撤退されるのは承知なので、害意のないことを強調しながら、様子を聞く。
こちらのメンテのまずいところを忌憚なく語ってもらわないと、うまい問題解決にならない。

確かに、わんこの毛玉なんぞがレールにからんだりして、こちらのメンテもロクでもないことを自覚する。
これからは、日々水洗等でそういう要因で建付けの悪くなることは可及的に防止しなければならない。

あとは、微調節の方法を自学自習せねばならない。
商売のネタを教えろというわけにはいかない。
以前、プロトコールをみた覚えがあるが、備忘していない。

自分のバカさをしっかりと把握して、バカを治すことは無理でも、ささやかな改善を積んでいかないと立ち行かない。

月末の午後は~♪

ちょうど世の中が動き出す熟れた時刻の朝に、月末の〆のための外回りに走る。
通帳に記帳したり、ちょいと買い物して、さっさとご帰還。
備忘録を〆ると丁度良く、クライアントにも恒例のご挨拶メールをすませる。

今月も右往左往・右顧左眄を繰り返した一か月だが、元気に終えて、終わりよければすべてよし。
まだ次月に突入していないので、今宵をしっかりと味わうべし。
このところ、己のささやかな一日に、実に一期一会の気分が濃厚だ。

いつものように雑事に動きながら、端末の動きもウォッチング。
ドングルやSIM二枚差しwifiルーターに食指も動くが、現有端末勢力の稼働能力を生かせば、無用の過剰装備も必要なさそう。
そのような謙抑性を生かして、現状維持路線を選択する。

適宜に動けば、この世はお気楽極楽。
板子一枚下地獄。
ダンテの神曲ではないが、地獄・煉獄・天国、まとめてひとつ。
味わうにしくはなし。

月のはじめも、月の終わりも、そこに変わりはないものの、めりはりの妙も生きる味わい。
来月はどんな月になるか楽しみである。

涼寒い夜半

暖かいのは日の沈むまで。
そこから夜半までどんどんと気温は下がる。
もうしばらくするとストーブを焚くことになるか。

早寝から覚醒すると、ささやかに夢見の名残が味わえる。
わが夢想ながら、ずいぶん勝手なファンタジーに遊んでいる。
まあ他人様に迷惑をかけているわけでもなく、荒唐無稽も楽しみのうち。

夜半のネット回遊では、米列車事故のニュースがひどい。
テロかどうか不明だが、まさに戦時下を示唆する惨状だ。
わが国のリスクマネジメントの能力も厳しく問われる状況も進行中。
いまはどこもタダでは済まない大変な時代だ。

SNSでネット知己が、一見ずいぶんと高踏にみえて、己の現実をまったく踏まえない、お前さんどこに依存して口糊してるのと反問したくなる書き込みで悦に入っている。
上下左右関係なく細胞は的確な活動を展開できねば病や死に至るが、頭全体は頓珍漢でも生きるに支障なく、かえって生き易い。
不思議な現象だが、実際にそうだからしようがない。

ただ、ネット時代は、こういう部分が増幅されやすい。
量子力学的時代相というべきか。

さて、今日で今月も終わり。
よき月だったと総括できればハッピーだ。

2016年9月29日木曜日

手羽娘えい~♪

わんこらに鶏骨などは禁忌だという説がある。
骨が消化管粘膜に刺さって致命的になるリスクがある。

そのとおり、リスクではある。
しかし、うちの仔らは大好きだ。

人間の子供の養育と同じである。
今日のテレフォン人生相談は、自信喪失状態の娘についての相談だ。
スプーンフィーディングしたのかどうか、事実関係は不明だが、ナイーブに育った子は、ある意味つらい。
自信は持てないだろう。

愚息もこれまで過保護にして、急に獅子の子落としみたいはないだろうと憤ったことがある。
しかし、延々と親と子の共同幻想は維持できない。
どこかで、厳しいリスクテイキングの必要な世界に被曝させる必要はある。

獣は、ペットといえ、獲物を咥えて駆け、しゃぶり尽くす本能をしっかり維持している。
ルンルンと獲物を咥えて駆けることなど、誰も教えなかった。
ペットフードだけを与え、座敷犬として飼っていけば、こういう本能や習性を喚起されることもなかっただろう。

飼い主としては、噛み割った骨片が死亡原因となれば、先日の仔の終わりのときのように嗚咽するは間違いない。
しかし、それでも獣としてルンルンと走るこの仔らの獣性を生かしてもやりたいとも思っている。
ドッグフードだけで満腹にしたときと、野性を喚起する食べ物を与えたときの目の輝きはまるで違う。

世のマニュアルには、ペットフードですら変えるなと書いているものがほとんどであるが、大嘘である。
美味いもの、歯ごたえのあるものは、彼らもよく知っている。

管理社会と何々という話になると、ペット飼育だけ、子供の養育だけではない。
関わるこちらの見識や度量が、しっかりと全面展開で問われる。

雨に歌えば~♪

いっとき天気が崩れた。
それでも、いそいそと図書の収受に向かった。

大雨でない限り、雨中行もそれほど嫌いでない。
車で走れば、五分、十分程度の距離なら、いい運動だ。

午前中は車で外回りしたゆえ、午後は歩こう。
和洋の雨の歌を口遊みながら、傘で鞄の中の本とドングルが濡れるのを防ぎながら歩いた。
肝心のスマホを忘れてきたので、通信もできず、買い物予定の備忘も手元になし。

それでも覚えておける程度の品目で、帰りに立ち寄ったスーパーでも生活品補充業務を無事終える。

このところ買い物含めて、家事が楽しい。
こんなことを人に任せるのは勿体ない。
掃除・洗濯・調理・買い物その他もろもろ総合学習、訓練、自己啓発、手足でする哲学となる。

帰って、冷蔵庫や棚に食材を並べていると、急に雨があがって日が差してきた。
このところディスプレイを日々模様替えして、自分の生活の流れに合わせるのをルチーンにしているが、帰還してすぐにやっておかないと頓珍漢になる。

整理作業に一区切りついて、庭に出ると、さきほどの驟雨がウソのような好天に転じ、日差しが気持ちよい。
少し前なら、雨で靴を濡らして帰ってくると、コンチクショーと思ったものだが、いまは面白いタイミングだったなと無理なく思う。
そして、次は靴底の濡れた靴をどうローテートして動こうかと、頭の体操を続ける。

特にeuphoric(多幸症的)な気分だけでもなく、面倒な時代、危ない世界だなと、倦んだ気分も抱えてディズマルな日々を過ごしている自覚もあるが、こんな両天秤を味わうことができる状況を寿いでいる。

明日は、もう月末〆日だ。

頭は生きているうちに使うべしか

ここしばらく不思議に思っていた、庭の盛り土の上にできた一直線。
なぜに曲線ばかりで出来たエリアに、定規で引いたようなまっすぐの跡ができている。

そのわけが二、三日前にわかった。
ひさしから落ちる雫である。
雨模様の夜に、あるいは露がしたたる早朝に、その軌跡ができる。
気がついてみれば、なんてことのない物理現象である。

世の中、一見は不可思議で、理解しがたい現象は山ほどある。
足りないのは、こちらの知恵である。
そして、知的誠実さに目配りして、一生懸命考え、調べ、しっかり揉んで、安直な結論を留保して、問題を転がしているうちに、それなりの実態、実相が浮かび上がってくる。
もちろん、そのような果実であっても所詮は己ひとりの仮説であり、シンプルスペキュレーションに釉を塗った程度のもので、なにか大がかりな、あるいはしょぼい、情報化時代というイリュージョンに幻惑されているだけのことかもしれない。

そんな中で、いまも某化粧品会社がスポンサーの右派ボードのライブ放送をウォッチング中である。
理屈はどうあれ、生の事実、情報、流れを知ることができる。
外国の戦時下情報の様相に近付きつつある、わが国の嵐の前、あるいは嵐のさなかの様相も、ネットで刻々と知ることができる。
これらの言説や情報にはデフォルメもあり、評価も気をつけないとミスリーディングされる危険はあるが、虎穴に入らずんば虎児を得ず、それに加えて、こんな云い方をすると語弊の怖れはあるが、ライブのエキサイティング感も出てくる。

さて、今日の陽光もちょうどよい感じである。
ここまで愚鈍できたこの頭と心身で、どこまで行けるか。
やってみないとわからない。
量子力学や相対論的認識に乗れば、そうだろう。
わが粗末な頭を使って、そういう感じの暫定結論にしている。

let it be

庭で野草を食んでいる。
飼い主がなけなしの食費で調達してくるお肉も、庭でしがむ野草も、彼らにとっては等価のようだ。

飼い主にとっても同じ状況はある。
ネットで落ちてくる情報、図書館の図書から入る知見、これらはほぼフィーフリーだが、たまに通販で購入する有対価の情報も、別に差はない。
デフレのこの時代、人々は適宜な機会利益を確保しようとするばかり。

インテリジェンスの肝は、この一瞬の判断で、のるかそるかに賭ける剣が峰だ。
余はジャンクとはいわないまでも、能書きやイリュージョンは、それはそれの扱いにするほかない。
トータルでどちらのボタンを押すかのベースが、インテリジェンスのすべてだ。

ネットにオーバーフローする情報と言説は、個別一塊のレベルでも内実は玉石混交で、アンブロックで首肯したり排除したりすることは困難だ。
こうなると、他人の喧嘩は大きいほど面白いといった性悪精神でなくとも、一丁噛むほどの刺激でなければ、八方目で視野視線の端々で一瞥するほかない。

今日も好天なら徒歩ゆく外回りにしたい。
気が変われば久しぶりのドライブでもよし。
所詮モード、されどモードで決まる。
そのときそのとき最善手を探るべし。

特に拘泥することは何もなし。
詰めてしまえばすべてlet it be.

2016年9月27日火曜日

ザワザワ~♪ザワザワ~♪

暑めの昼も陽が翳ると涼しくなった。

ライブで聞こえてくるニュースもホットな午後であった。

米大統領選の公開討論会。
報道だけでなく、識者の軍配も8対2あるいは7対3、6対4でヒラリー氏に上がっていた。
健康上のアクシデントが発生しなかったようだが、それだけでも大きな得点といえよう。

わが国の国会も、本来は国家の命運にかかわる大問題を扱うべき場かつ時のはずが、それを評するマスコミ等もいつものとおり化石のごとく。
与党がやるべきことを粛々とやっているだけで、野党のとりわけジャンクな部分が自滅しているだけで、サイレントマジョリティーの端々としては、特に声高に語るべきことなし。

病院の殺人事件。
流れてくるニュースを聞く限り、この前の施設殺人と同様、価値なき命を黄泉に送るが慈悲と倒錯した人間の内部犯行のようにみえる。
医療事故報告制度の埒をワープするが如き犯行に、従来のどうのこうのが吹き飛ばされそうなまるで竜巻発生のような雰囲気を感じる。

こんな騒がしい世の中でも、クーラーをつけた部屋の真ん中で、わんこらは大股広げて寝転んでいる。
庭に出れば、草をはみ、狭いながらもドッグランを疾走する。

生き物は、人間含めて、これでいいように思う。
ザワザワ~♪でも、ザワワ~♪でも、快い風と陽光のシャワーが不可欠だ。



重き荷に暑さ満点

図書室で予約本を受領し、スーパーの特売に寄り、最後はコンビニで〆る。

車もバスも使わずに、ウォーキングが好適と一回りしたが、結構荷が重い。
家康公の立派な遺訓を座右の銘にしないことにしている軟弱の徒ゆえ、安価大量仕入れになってしまったスーパー特売は重さに耐えかね嬉しさ半分だ。

加えて、今日は暑い。
気象情報では夏並みだとか。
帰って汗を拭き、クーラーをつける。

少し難ありのフルーツが、超特価で、これからジャムを作る予定である。
光熱費を入れても、市販のものの三分の一で出来るだけでなく、自分の好みの薄味にできることがありがたい。
手軽に調理する癖がつくと、市販のできあいの商品には手がでない。
外食等もそうだ。
自分でヘルシーにアレンジできるものを、あえて外に出るのも面倒だ。

もちろん、たまに中食で食べたいものが出れば、コンビニやスーパーでついで買いはする。
さきほども、久しぶりにコンビニのおにぎりをいただいた。
具がうまく真ん中におさまり、のりを巻く誘導もぴったりだ。
特許だろうが、さすがNC旋盤等でマネのできない水準をいくわが国だ。
食品の成形もすごい能力である。

月末の払いもすませたが、自然なダウンサイジングで、ずいぶんと出費が減縮できている。
パラドキシカルなエールだが、アベノミクスも頑張られたし。

今朝もいそいそカスタマイズ

起きがけは少し曇天だったが、少しずつ晴天になりつつある。
日差しは強くなく、実に快適だ。

わんこらも庭を一駆けして一日の準備運動を終える。
この天気なら、朝の外回りはウォーキング向きかもしれない。

各端末を充電し、一日一枚フリーのネットファックスサービスで電話兼ファックスの健康チェックを済ませ、外回り用ドングルの通信能力もチェックした。
一日一回、もっぱら朝方に、この定期点検、勤行を欠かさない。

加えて、今朝は某大手通販社の特典会員を返上した。
地の果てに住んで、まったくと言っていいほど特典を享受することはない。
逆に、あれこれ使い放題の惹句に腹が立って、すこぶる精神衛生によろしくない。
ささやかな月会費でも、同じコストでちゃんと楽しむことのできるコンテンツは腐るほど転がっている。
そういうことで、ただいま返上後の精算中である。

こういうことは使ってみて初めてわかることで、特に消極主義に徹しているわけではない。
大手キャリアの通信サービスを解約する以前は、バンドルで押し付けられたマガジン読み放題を月数百円で利用していた。
最初は、多数の雑誌を読み放題と喜んで利用していたが、これも粗が目について、キャリアのサービスと別途に購買できることを知っているが、裏を返す気にならない。
まず、同じ誌名でありながら、紙雑誌と電磁雑誌でコンテンツが異なる。
出版社も紙媒体の売りを確保する面もあってか、肝の特集記事などは紙雑誌でないと読めないように仕組んでいたりする。
更に、仮に紙と同じにしても、有象無象のジャンクな記事や情報に目を通していると、時間泥棒に貴重なリソースを奪われてしまう。
これも、体験後の知恵で、手を出さない。

細かい損得勘定で動くと、高くてもよい商品サービスから疎外されることも身をもって学んだので、変に小切ることはしないが、やはり合理的なトリミング、断捨離は、適性な環境設定のためには必須の作業である。

今朝だけでなく、いそいそのカスタマイゼーションは続く。
最期に、自分も要らないなという状況まで続ければ、この世にもハイさようならである。

右も左もパンパカパンじゃあございませんか~♪

夜半のyoutubeをBGMにしながら、鶴田浩二の歌詞を思い出す。
右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか。

左の孫崎氏、右の馬淵氏、ひたすら出身母体をディする佐藤氏。
外交官のサイレントマジョリティもちゃんといるので、だからどうだと荒ぶるつもりはない。

国会では、安倍首相のスタンディングオベーションを野党が論難するが、ルーピ~の所信表明演説で同じ行動の写真がネットゆえに瞬足でアップされる。
ブーメラン現象の免れないこの時代、ただただ嗤うことで必要十分だ。

朝のゴミ出しは、快晴、気温寒くも暑くもなし。
今日も悪くはないスタートだ。

深夜放送で聴いた伊集院光氏もお元気そうでご同慶である。
根はこういった非政治的展開が大好きだ。
しかし、しっかりとした足元がなければ、非政治的言説を面白くできるわけはない。
上記の外交官言説ではないが、極端なだけのアホとみてとれれば、あとは傾聴するに及ばず。

今日も、いろいろとランダムウォークで楽しもう。
ネットの良さは、特別の利害相反などなく、素知らぬ顔でつきあえるディタッチメントが肝だ。
親兄弟、自称リアル友人知己とはずれ、気楽に往来する人たちもモチーフはよくわかる。
しがらむとホンネも建前もむつかしい。
もちろん、ネットにも、いやネットだからこそ、素知らぬ巾着切りも、詐話師もいれば、スパムは限りなし。

要は、日々の自己研鑽で、パンパカパンの破綻は、お防ぎなさいといことだ。
安易な自己責任論は危険だが、因果応報は気にしておくべき要点ではある。

みんな夢の中~♪

早寝早起きで、夢から覚めるが、どうも人生をやりなおして、某所で修行中の夢だったようだ。

安直な夢分析は当たるも八卦当たらぬも八卦だが、夢いっぱいにこんな人生もう一度やってみたいなんてファンタジーでなく、きっと己の人生に忸怩たる思いを噴出させて、慚愧の念を思いっきりドラマ化した夢だと理解している。

それでも、よほどの悪夢でない限り、夢に遊ぶのは好きだ。
覚醒時に思うことや考えることは、それ自体を認識対象にできるから、俺はまたこんなこと考えてらあなどと即時にそれをプロファイリングできてしまうが、夢の中では、無意識の旅をそのまま丸ごと味わうことができる。
そして、醒めてから夢の名残にたどりつければ、俺は無意識でこんな風に思ってるんだと、自分の指向のテイスティングも素直にやりやすい。

時間感覚は人それぞれなので一般化はしにくいが、邯鄲の夢などという話があるように、また信長が最期に下天の夢と舞ったように、人生には一睡の夢のような側面がありそうだ。
夢についてB級C級グルメの自分は、日々いろいろとみる夢を楽しむのが好きで、一夜の夢でなく、千夜一夜の方がうれしい。

今日は、知己がSNSに思考論をUPしているところを、目覚めに遭遇したので、夢だけでなく、唯幻論や共同幻想論などにも思いをめぐらせた。
昔、学生の頃、ある教官の「戦争体験のように辛すぎる経験をすると、なかなか口にしがたい」という述懐を聞いたことがあるが、そのような方の悪夢は辛すぎるか、夢でも言葉や物語にすることはできず、抑圧し切って夢にもみないのかもしれない。

まあ、宇宙論的時間というほどもなく、生き物が個体として生きることができる時間は短い。
夢もうつつも、思い切り味わうにしくはない。

2016年9月26日月曜日

黄昏の兪悦

ラーメン屋の亭主は、60過ぎでセミリタイアを目指し、仲間と組んだバンドで老人施設の慰問を愉しむ。
嫁は、娘夫婦がくれたラーメン屋改造期間のサバティカルをうまく楽しめない。

旦那のおやじバンドに弁当を持ち込みマネージャー風を演じようとして迷惑がられ、家を出た息子夫婦のおめでたに家事を手伝ってやるのだと発心して、嫁に忌避される。
里の姉妹たちの家庭の事情に首を突っ込んで、これまたノーサンキューを言い渡される。

おやじはサバティカルを趣味の深化とセミリタイア生活のプライミングにうまく利用し、おかみは一種の空の巣症候群に追い込まれて、最後はラーメン屋人生への復帰で、己のテーマを全うしようと人生をリセットする。

世は騒々しくせわしないが、うまく人生のテイパリングやリセットする見込みを持てる人々には、十分に首肯できるホームドラマの特番である。

そういうドラマを何度も楽しみながら、庭でわんこらと遊ぶ。
ほうこんな行動動態をとるのかと、ウオッチングすると、人間様の予期には簡単に合すことはない。
それでも各自が楽しんで、落としどころが見つかると、家に戻ろうかのモードに収束する。
野草たちも、自由にlet it beさせれば、好きなように繁茂し、狭い庭なりの生態系を形成している。
動植物の相互作用のあわいを観察しているとこちらもなごむ。

ファーブルやダ―ウィンがかつて精励して楽しんだワンダーランドを、市井の下々が楽しむことができる時代は悪くない。
楽しめる合間にしっかり楽しむことは、なにはともあれ善きことと思っている。

失見当識

暇に任せて、PCやタブレット、スマホのあまり利用していないソフト、アプリをいじってみる。

小さい規模のところが、結構厚かましい同意を求めるが、危ないと思うと、承諾ボタンを押さずに戸口で撤退する。
しかし、虎穴に入らざれば虎子を得ず、大きい利便性の高いサイトは、使わないと不便だ。

Amazon、Microsoft、Google、Facebook、Yahoo、dropbox、Skype、hangoutその他もろもろ、常用する有名どころも、日頃いじらぬ機能もたまには覗くように努めている。
覗いてみないと、己の個人情報や扱いがどうなっているかわからない。

危険なのは、自動でクラウドにあげる、気が付かずにあげられてしまう、あがっている状態だ。
いまもチェックしたクラウドのスポットをみると、自撮りのjpgがいくつか載っている。
連絡先に、名も覚えていない、かつてメールをやりとりしたり、SNSで袖すり合ったらしき人々の名前が備忘されている。

わが性癖には、やばい写真を保存するような範疇はないし、誤解を受けかねないサイトのキャッシュだって、わざわざ温存することもない。
しかし、事故的に間違ってボタンに指が当たって、風呂場でのネットサーフィン時の裸体が残る可能性もなくはないし、前記したこちらが覚えてもいない雑多な通りすがりの個人情報がクラウドにトラップされていることもあり得るし、困ったことに、これを今日のパトロール的ないじりやチェックがなければ、まったくそういう事実の見当識すらないのだ。

まあ、有名通販サイトは、何から何までこちらの購買可能性があったり、食指の動く対象を知悉している。
毎日のようにメールで、これいらんかねえと構いに来る。
SNSは、こいつ知ってるだろと、ほんとに実に遠い知己まで挙げてくる。
人だけでなく、先にあげた提携先の通販の広告も、カスタマイズした形で挙げてくる。
こちらも慣れているから、不要と思えば洟もひっかけない対応に徹して、そのうちこちらに気がないと判断して勧奨風もやってこなくなるが、そういう私生活隅々までグリップされる空恐ろしい世界に、われわれは居るわけだ。

まあ、利便性の高いところを利用すれば、こういうことを前提に動いていくほかないのだが、たまの手入れで危ない現実を痛感する次第である。


君の瞳は一万ボルト~♪

朝のメルマガで読んだ医学生の聴読のススメ。
眼が疲れるので、いろいろと音声変換させて聴くが、これがいいというご満悦稿。

自分も老眼乱近視等々で視る方が弱体化しているので、youtubeはじめ情報収集を聴覚に頼ることが少なくない。
それでも、聴覚依存はお勧めでなく、視るが大事の自論を語ろう。

ゲシュタルト心理学ではないが、視て一発統合が肝になる。
百聞は一見にしかずという諺も、そういうことである。
偏見は望ましいことではないが、一見で見破ることが死命を決することが少なくない。

また、知覚も楽だから、簡単だからという発想は危ない。
よくわかるには、視るのも、聴くのも鋭敏である必要がある。
ヘッドホンで注意が奪われて事故に逢うこともあれば、逆にスマホの画面に目を奪われて転倒転落事故で死ぬ御仁もいる。

したがって、眼も、耳も、統合する中枢も、末梢も、しっかりと鍛えないと、ダメである。
眼は口ほどにものを言いという諺もあるように、まなざしは大きな力をもっている。

まあ、ここいら辺りのことこそ、能書きではない。
各位が、自分に合うように適宜に鍛錬して、実をあげるほかはない。

さささと朝市

スーパーのセミオープン前に、ドングルでスマホ通信の練習。
せ~のでつなぐぞのボタンをクリック失念で、しばらくつながらぬ気分も経験する。
やはり、外出時に実際につなぐ訓練をしないと、実戦で今朝のように失着が生じる。

Skypeの試験通信が、音声と通信のテストとしては最良なので、やってみると気持ちのよい環境とディテクトできた。
そうこう訓練、シミュレーションをしているうちに開店時間となる。

一番に近い入店で、貸し切り気分だ。
出勤登校途中の買い物姿がチラホラ以外は、売り場をおとなう者もなく、従業員の商品配置カート以外は自由自在だ。
レジも混まずに快い。

帰って購入商品を冷蔵庫に入れるが、ぴったしカンカン。
多からず、少なからず。
この購買スキルの練達度向上もうれしい。
気持ちのよい自己満足を接ぎ穂していこう。

今日は図書室が定休日、食材その他の不足品は今朝の補充直後とあれば、あとはのんびりするだけだ。
ネットのラウンドと、犬息子娘の庭遊びサポートが、いつものごときハッピー定番メニューだ。

この凡庸なルチーンが、最高の幸せと、いつものごとく再確認する。

ネットワーク社会

youtubeで石平氏の対談をBGMにしていたら、中国ネタの別番組に移行した。
少々前、中国の高度成長が注目されていた頃、大連に移り住んだ日本青年の物語だ。
大学では仏教史を勉強して修士課程まで進んだが、学者になる道を諦めて、異国大連のコールセンターに勤めた。
オフィスの執務風景、朝礼の訓話まで、日本のオフィスといっても、そのまま通りそうな雰囲気だ。

給料は数万円だが、かの地の平均に比べれば、三倍ほどの高額という。
高級ホテルとみまがう高層マンションに住む。
オートロックで快適な暮らし向きだ。
年余の勤めで、リテラシーの低いクライアントに同じような説明を繰り返す生活に少々倦んできているようである。

youtubeに耳を傾けながら、先日のわが電話工事を思い出した。
セッティングなど事務的な世話をしてくれたのは、秋田のコールセンターのお嬢さんだ。
東日本を手広く管轄していて、当地との直接の関連性はない。
クラウドに保存された資料をもとに指示が出され、工事当日やってくるのは、下請けのおじさんだ。
日本でも大連でも、やっていることはほぼ同じだ。

自分も変わり者コンサルタントゆえ、昔から遠隔地クライアントの比率も高かった。
インターネットを使う毎日では、このようなコールセンターと同じ仕組みになる。
Skypeを使い、郵便を併用すれば、ドアの向こうは他府県であっても、特別の支障はない。
このところは、裁判所などで電話会議やビデオ会議も可能だから、どうしても出向く必要のある場合のほかは、このようなネットワークで業務ができる。

最近、海外留学中の知己とSkypeやHangoutでビデオチャットに興じたことがあるが、隣の部屋でビデオチャットするのと大きな違いを感じない。
自分は、どちらかというと、このようなシステムの利便性よりは、リスクや破綻時のハングアップを危惧する人間でありながら、それでもこのような手法で世の中が動くようになりつつあること、これらなしには小さな工事や買い物もしにくくなってきていることを強く感じる。

便利なようで不便、不便なようで便利な時代を生きている。
大連の青年は、家族の写真を持ちながら、年金などもかかっていない将来を少々不安に思っている心象風景が映し出されている。
日本に居ても、先の見えない日々が老若男女のデフォになりつつあるが、異郷ではやはりドア・ツー・ドアではいかないだけに、よけい望郷の念が掻き立てられるようだ。
これらも、ビデオチャットや定点カメラで、かなりフラストレーションも減殺できるだろうが、、、、。

わんこの頭をなぜながら、肉感ということも兼ね合わせて考えるネットワーク社会の光と影である。

山登り、マラソンのごとく

ハブにしているPCを強制離脱させようとしたら、電源が切れなくなった。
雪隠詰めだ。

いくら強靭な筐体を売りにしていても、リブートもできないザマではしようがない。
この社製のスマホとタブレットも、一度切ったら電源を入れようとしてもストライキする癖があるので、常時電源の入った状態でメンテしている。
仮にウルトラマンバッテリー風になっても、いつもエネループを持ち歩けば、特に支障はない。

PCの様子を観察し続けても、放置のままでは、埒が明きそうにない。
取説を何度もチェックして、リセットボタンのあることを知る。
針穴ほどの穴に、文字通り針先を挿入して押すと、無事電源が切れて、再起動に成功した。

山登りも、マラソンも、わが楽しみではないが、艱難辛苦を一歩一歩進んでいくモードは、さも似たり。
やっていると、たいていは「やればできるじゃん」「いいことに気が付いたね」といったパターンで終わらせることができる。

ムシムシ低気圧も、一晩過ぎると、肌寒い引き締まった空気に転じた。
油汗も出ず、不快感も失せて、気持ちのよい夜明け頃となっている。

あと数日の月末を、こうして走り続けるつもり。
要はペースメイキングのスキルが問われる種目ということか。

2016年9月25日日曜日

大股開きの至福

エアコンの除湿を入れると、実に快適だ。

ワンコらも、大股開きで寝息をたてている。
飼い主に間違えて踏んずけられるなんて欠片も思っていないかの姿態である。

小さかった頃は、粗相やヤンチャに怒ってばかりだったが、この頃はこんな無防備な姿を眺めるのが、わがささやかな幸せである。
dog yearでみれば、長命を得られても所詮さほどの寿命ではない。
かつて獣女医に、こんな飼いにくくて短命のことの多い犬種を飼うなんて酔狂ですねと揶揄された変人飼い主である。
しかし、飼う方からすれば、だから可愛いのだ。
漱石も、可哀想ったあ惚れたってことよと云った。

自分が暑気で、低気圧で、倒れてしまわないように、この仔らを過って踏み殺さないように、行けるところまで行くミッションが、ニヒリズム親和性の強いわが人生を支えてくれている。

飼い主も、うまく環境設定できれば、大股開きの至福を共有し、安楽椅子で寝入ることができる。

実にありがたい次第ではある。


ムシムシsunday

昼寝から目覚めると、どうも気分がよくない。

どうしたことだろうと考えてみると、ムシムシとした暑さだけでなく、低気圧のようだ。
気象医学的に不調な人が増える天気だ。

暑いといってもエアコンをつけたいほどに感じなかったので、窓を開けてしのいだだけだ。
風もそこそこあるんで、庭に出ると、室内よりも不快指数は低い。

今日の「そこまで言って委員会np」は国土保全、国土強靭化がテーマ。
出てくる問題は、なかなか容易でない話ばかり。

この不快指数をなんとかしのぐ程度が、わが現在進行形の課題ゆえ、天下国家の高踏的議論に近づきたいという気持ちが起こらない。
まあ、大事件によるダメージの前に、このような天気が一週間も続けば、ドテッとdownしそう。
実際、夏のさなかには、もうアカンかなあと悲観的自己診断に及んだこともあり。
皮肉なことに、愛犬がそんな不運を咥えて、天に持って行ってしまった。

番組では、МCの辛坊治郎氏が、防衛問題について、中谷前防衛相に「日本はどこまで防げる」かと切り込む質問に及んでいたが、いまどきの防衛は、ほとんどが宇宙と海中からモニターして、及ぶべき一手を計算する。
看過できない動きのリスクと、アタックや反撃によって跳ね返る負担やダメージとを計算、勘案して、次の一歩を選ぶ。
中谷氏のいうように、大いなる国家機密で内緒、主軸は米軍である。
そんな常識を踏まえれば、辛坊氏のそれも陳腐な質問群と思えど、日本のマスコミ陣は、リアリズム番組を自認するレベルでこの程度だ。

そんなことより、湿度、気圧、その他の気象条件がましにならんもんか。
キーボードを打っている今も汗ダラダラ。
アップしたら、エアコンの除湿をつけようか。

立って半畳、寝て一畳。
天下国家より、五臓六腑のメンテが一番の課題。
downしてしまえば、そこでゲームセットだ。

諸行無常の大変だあ~♪

いつもの陳腐な思考と結論だが、refrainしてみる。

最新のニュースによると、Twitterが身売りを検討中だという。
CEOは反対しているらしいが、他の幹部らは将来性のpoorなことを見込んで手仕舞志向なんだそうな。
買ってもらいたいのはGoogleだという。

こういうことは、Twitterに限らない。
わがディペンドするマイクロソフトも、Skypeを傘下にしている。
個人情報も一気通貫だ。
どことどこがライバルだからと使っていたら、M&A等で速攻同一経営になったりする。

企業のありようだけでない。
この時代、ユーザーとしての立ち居振舞いが難しい。

米ヤフーから5億人分の個人情報が流出したという。
自分もヤフーJapanを利用しているが、こちらが気をつけていても、プロバイダ等で底割れ事象が発生すると、スッポンポンの危険は常に伴う。
自分で防止できないリスクの相対性理論とでも呼ぶ他ない機微だ。

金融機関は 、たびたびパスワード等を変えてリスクを下げろというが、コロコロ変えて間違えて数度rejectされたら、窓口に赴いて煩雑この上ない査問、人定質問を受ける。
病気や死亡となると、銀行やプロバイダーの厳しい処理が待っている。
肝心の機敏な処理を望むときほど、コンプライアンスやリスクマネジメントの投網にがんじがらめに捕縛される。

災害大国のわが国、地震等で家の窓や戸が変形、ロックドインされれば、監禁状態になりかねない。
最近の盗犯多発化その他のセキュリティのため重装備するきとと、災害時にうまく逃げることが、トレードオフになる。

ガラスを割って、何とか逃げたら、今度は盗人のいいターゲットになる。
平時には潤沢なリソースで便利なPCやタブレット、スマホ、その他のツール、ストレージが、悪人の物品盗や情報フィッシングのリスク大につながる。

これらも平時と災害時の時差的トレードオフの構造を持つ。

同時によくはできなければ、対策のとりようもなく、そこそこで諦めるというのが落としどころになる。

諸行無常とはよく言い得て妙だが、現代のこうしたリスクは安穏にいかず、無常感にひたっていられない非文学性が強い。

かなわん話だが、この時代に生きる以上、こう思いつつ生きるほかはない。
困ったもんだ。


傍若無人あるいは天上天下唯我独尊

日曜日だが、特にこなさなければならない用事もなく、のんびりとしたスタートだ。

近所の若旦那も愛車のお世話で小間物屋を広げているので、こちらもちょろちょろ動いて事故でも起こしたらうれしくないので、インナー指向に徹する。

住いの近隣関係と隣国との国際関係は、さも似たりである。
よき隣人は、なかなかおらず、こちらもなり得ない。
他人が近隣に位置するだけで、さまざまな利益相反関係が生じ、接触事故のリスクも増える。

今朝もネットで知己が、原子力廃絶を云いつのっていたが、実はむつかしい。
北の核ミサイルは、わが国のテリトリーに乱発され、抽象的危険から具体的危険に転じつつある。
民生と軍事の核技術は通底し、実務的リテラシーを欠けば、核防御も不可能性が強まる。
北は、ロシア崩壊時に、原子力技術者をごっそりスカウトし、核開発に励んで今がある。
中国も、東シナ海の埋め立て地に原発を作るだの、ミサイル基地を建設するだの、これまた具体的な侵略意図を隠さない。
知己は、経済性を口にするが、飽和レベルのミサイルを撃ち込まれて廃墟になった狭隘な焦土に、経済性もクソもない。
非核指向を鮮明にしている被爆国ゆえ、核武装唱道派のような中途半端な核武装は望ましくないと思っているが、バンカーバスターのような非核兵器を装備強化するにしても、実務リテラシーを維持するために原子力のテイパリングしながらの維持は必要だ。
もんじゅのごとく増殖に失敗しても、核融合等も今後の世界で志向される時代であるから、未来技術の実験的フィールドも、同じ理由で維持の必要はある。

そんなこんなを思っても、ご近所さんにも、知己にも、政治活動サイトにも、働きかけることはせずスルーする。

傍若無人といえば、粗暴でラウドな振る舞いで荒ぶるイメージだが、傍らに人なきが如くにスルーする風の如く去りぬ型の傍若無人もありである。
荒ぶる傍若無人に素知らぬ振りばかりでは、図に乗った御仁に攻め込まれるばかりだが、そこまでのリスクはなしと判断すれば、フェイントをかけるが如くの静かな傍若無人が良手となり得る。

また、釈尊の云った天上天下唯我独尊も、エゴイズムやナルシシズムの謂いに曲解されがちだが、本来は己の頭の上のハエを追え、自分をしっかり深堀りすべしとの尊い教えである。
狭隘なエゴイズムやナルシシズムを排し、他者への傾聴姿勢を維持しての自己沈潜は、自分らしい解答や解決を引き出す鍵である。

言うは易く、行うは難しだが、意識してよいスタンスではある。


朝顔につるべとられて貰い水

朝の調理に及ぼうと前をみると、眼前に犬娘が豚足をしがんで夢中だ。

踏みつけないように、回りまわって、キッチンに立つ。

彼らは、すでに飼われていない。
よほどのことがない限り、自分たちの思うとおりに暮らせるという感覚にはまっている。
こちらが飼っているつもりでも、とうにきゃつらに飼われる立場に転じている。

緊急性があって、看過すれば危険な場合以外は、まさに貰い水パターンである。
そういう慮りが出来ることが、わが喜びにもなっているので、とりわけ相好は崩さないものの、淡々と遠回りで作業を続ける。

朝方から桜チャンネルなる右派活動サイトの座談会をBGMに流す。
特に右派左派問わず、事実チェックにyoutube視聴の半分程度は、こういう硬派ネタを流すが、ショービニスティックな狭量さを顕わにして喜々とする人々には、辟易気分を禁じ得ない。
後でネット検索で下掘りしてみると、こういう連中のバックには、実は反対勢力のマヌーバーが及んでいる形跡も少なからずある。
政治経済等は、明示された言動と裏腹な力動が働いていることは、インテリジェンス的には常識的な知見ではある。

まあ、そういうことを含めて、正鵠を射ることを目指すほかない。
結局は、統計力学ではないが、ゲシュタルト心理学的にたどり着くほかないというところか。
所詮、人類という、よく考えれば、なかなか喰えない種のアドホックなセンチメンタルジャーニーが今である。
もうすぐみまかるべき身からすれば、さっさと定見に達することができれば、無用の用に徹して、余生を淡々とまっとうするほかなし。

今朝の日差しは、快く、期待値大。
愉しくすごすべし。

マッチング

早寝早起きの深夜、鈍なネットブックのセキュリティソフトの更新を試みるが、光から飛ぶ無線LANに反応悪し。
それをフリーSIMをつなぐドングルからのwifiでスイスイと完遂す。

何でもマッチングが大事なんだろう。
理屈はよくわからないが、機械やシステムにも大いにマッチングあることは間違いなし。

外出時にあまりドングルを利用しないライフスタイルゆえ、こういうところで自宅使用にも励んでおかないと勿体ないは、外回り使用の際の機微も錆びつく。
メディアミックスが、飽和でデフレで自由自在指向が賢い現代社会の基本的ありようだろう。

さて、深夜活動のスタート前に回遊したネット情報をひとくさり。

まずは留年率の高い学部学科の話題。
医学部薬学部など、国家試験の控える諸学部諸科がダントツである。
それほど好きでないなら、エントリーすべくもない職業訓練所だが、親や世間は今なお食いはぐれがないからと高校時代の偏差値で押し込む。
法学部なども同じ。

医療諸職だって、法曹や会社員だって、すでに安全パイなんぞは過去の牧歌的物語だ。
つけは結局ご当人にブーメランで戻ってくるので、要注意である。
まあ、ロートルが云っても詮無いことゆえ、どうぞ自ら御体験をと〆る。

次は、より狭い研修医予備軍のマッチング情報の話題に移る。
大学医局も、各所いろいろ。
わが母校の情報もみたが、まずまず。
上記留年率の話題同様、先は各位が紡ぎ出すべき現代。
芳醇な未来をインキュべートできるかどうか、個と組織の課題だ。
愚息もなんだかんだやっているのだろうが、絶縁で知らず。
大学外の情報も知らぬことはないが、要はいかに生きるということである。

最後は、留学中の知己の極私事話題だ。
接触なしで現況を知らず。
元気ならばそろそろご帰還か。
縁があれば、いろいろ傾聴しようとスタンバイ気分だが、いまの時代、政治家でなくとも、一瞬先は闇だ。
小池さんや安倍さんもスリリングな毎日を動いておられるのだろうが、常民もそれはそれで、また同じ。




2016年9月24日土曜日

週末月末miscellany

辛坊治郎氏の土曜日定番「そこまで言うか」を、youtubeのアーカイブで、生と2時間ほどの時差で聴取中。

辛坊氏の言説には、当り外れの極端さを感じて、常に肯じられるわけではないが、まずまずの聴きごたえで、毎週土曜日の定番となっている。

聴きながら、少々はやい夕食の調理。
まずまずうまく出来上がる。

このところ色々と打率がよく、自己満足に浸ることができているが、これでいいのかしらんの自己懐疑というか、不安感情も常にある。
まさに生きている証拠で、生きているのは不安定、打率もホントウは不分明。
妥当な反応ではある。

わんこの夕食も食いつきのいい良品に仕上がった。
食材をかざして、ご所望のアンケートを前置すると当りがいい。
ペットといえど、ちゃんと意思もあれば、聞けば内心の様子は聞こえてくる。

ネット整備のためのプリペイドSIM追加チャージの商品をあらためると、Amazonで品切れ、ヨドバシで残り僅少の表示だ。
商品サービスが途絶してしまえば、ご縁なくなって結構毛だらけのスポットだが、逼迫事情には興味あり。
業界ウオッチングとしてFollowは続けるつもり。

気象情報によると、温暖化の進行で、内陸で豪雪の可能性も大とか。
こういうパラドキシカルな現象は、気象だけでなく、現代社会には満載である。

好奇心を持って生きるが、一番の健康法に思う。
週末月末、月初めの違いなし。


歩けあーるけ歩け~あるけ♪

晴天、朝のうちなので、歩いて図書室へ出向く。

もうさほど暑くはないが、それでも汗ばみはする。
半袖の軽装でも、少し暑い。

まあ、そこそこの荷物を持っての徘徊だから、負荷の分もある。
少し汗をかく位の運動が丁度いい。
車やバスばかり使っていると、身体は楽ちんだが、なまる。

帰りも、待つのが面倒で、徒歩でとおす。
毎日これ位の運動を習慣にすればいいのだろうが、なかなかそこまではいかない。
日和見主義で、適宜のメニューとする。

銀行引き落としのSIM代金を入金しておいたが、5000円の入金で来春まで賄える。
なんと軽装になったことか。
ありがたい。

帰って、次の図書の予約を入れるが、同時にPCの備忘欄に、このところちょいと食指の動いた図書を書き込んでおく。
暇ができると、ネットでいろいろと調べ、図書館本を借りるほどでもないレベルの知見を得ることができたりする。
いいことに気がついたねえ~♪っぽい作法は、躊躇せず導入する。

セブン銀行いじりのついでに買い物をしたコンビニでは、買おうかと思っていたタバスコをパス。
七味や一味で代用することに決めた。
シンプルに一本化できるダウンサイジングも躊躇なく行う。

広げたり、トリミングしたり。
歩いて、足で考える効用でもある。

バリア考

養老大先生は、バリアフリー警戒論者である。
わが見解もそれに近い。

バリアフリーは必ずしも安全ではない。
いつも単調にこちらの都合に合わせてくれる造りに慣れていると、ちょっとしたイレギュラーで失調する、滑るなどのミスが出て、転倒や転落を生じる。

不自由な人にユニバーサルデザインでバリアを破砕しようという発想は、もちろん大事ではあるが、逆に人為的バリアで、バリアフリーの陥穽に対応できる能力を維持発展させることも重要である。
その兼ね合いが大切だが、実際は極論の罵り合いで膠着するだけのことが少なくない。

ちょいとニュアンスは違うが、わがyoutube利用なども、苦労を大切にしている。
いまは安い見放題サービスがあるので、月数百円で自由自在に観たい映画やドラマを視聴できる。
しかし、それを採らない。
見放題となれば、好き放題に流れる。
放恣で自堕落なウエイ・オブ・ライフに陥る。
youtubeで、観たいアーカイブを探して、みつけた喜びと共に鑑賞する。
著作権の問題なしに保存できるオープンリソースならば、バックアップしてオフラインでも愉しめるように工夫する。
そういう拘束があることで、貴重な時間や機会を利用するマインドが維持される。

さらに飛躍した論を進めると、政治論なども同じように感じる。
わが国の特異性から、不自由は多々ある。
右派は、国辱親和的だと悲憤慷慨し、左派は、逆の発想で不自由度をエンハンスしようとする。
しかし、右派的偏りで、政府の弱腰を提灯行列までして論難し闇雲なショービニズムに突入した歴史もあれば、左派的反国家主義で国益が大いに阻害された歴史もある。
わが国は左右へのぶれ、恭順と反発が極端な国民性を帯有している。
それはジグザグの内戦的角逐で島国を維持してきた歴史性に根をもっており、それなりの合理性もなくはないが、長所兼短所である。
真のリアリズムは、養老師のいうように、起こることも大事だが、起こらぬことの大事さの自覚であるとか、できることできぬことの切り分けの上での諦観を持ちながらベストエフォートを黙々と、あるいは現実を示唆しながらの努力に反映される。

どの領域でも、バリアとバリアフリーのあわいをハンドリングして、現状維持や現状変更していくことが大切ではある。

うちのわんこらにも、自由にさせるタイミングと、自制させないと危ないタイミングの教育を意識して、手綱捌きに腐心している。

自分を自由にする、あるいは不自由さの負荷をかける。
最もむつかしく、大切なセルフケアである。

戦いすんで日が暮れて~♪

朝一ネット回遊後、二度寝にも至らず、のんびり中。

だいたい年寄りの朝は、はやい。
早寝していたり、昼寝十分だったりで、無理はない。
眠たくなれば、即二度寝する。

若い諸氏には理解不能かもしれないが、老人だって未来についていろいろ思い悩む。
3・11の直後、90台の高齢婦人が、「お先に失礼します」と自裁された。
自分も若い頃なら、もうすぐお迎えが来るのに、ざんないなと思ったかもしれない。
しかし、前期高齢者前のセミ年寄りにブッキングしている今の自分には、痛いほどその気持ちがわかる。
戦争や天変地異も経験して、今回もなんちゅうことないぞとなるかというと、ならない。
どんな高齢者も、今が初体験である。

100歳直前で、100を越えたくないと、自ら亡くなったご婦人もいた。
みんな、こだわりも、自意識もある。

そんなことを思い起こしながら、朝一のyoutubeで次のようなサイトに出会う。

https://www.youtube.com/watch?v=ogBlS_SdAHc

天地真理氏と柳沢きみお氏の現状紹介だ。

観ていただければわかるように、お二人とも華麗な若き成功者で生きて、初老のいま、お辛い初老生活を送られている。
人生は万事塞翁が馬。
若き成功で身に着けたイタイ生活習慣で、いまや実に痛い辛い毎日を余儀なくされている。

これは、このおふたりの特異な体験ともいえるが、ごくごく普通の市民にも起こることである。
若い頃は、老いさらばえて、気力体力の劣化した生活がやってくるなんぞという具体的な視点視野は持ちがたい。
だから、どの人にも、気付きによって、突然のありゃありゃ体験による悟りの時がやってくる。
わがネット知己も、ああしてこうして対策しなきゃと書き記し、ずいぶんと気にしておられる。
しかし、困りごとのコンサルを仕事にしたわが身、わが経験からすると、なかなかそうともいえない、そうは簡単にいかないんだよという突っ込みどころが満載である。

これはしようがないことである。
要は覚悟の、悟りの問題だが、特別に縁のない間柄で、出しゃばって論うことではない。

各位で悪戦苦闘し、後にハミングしながら自己慰撫するほかはない。

みんな夢の中~♪

夜は涼しい秋たけなわ。
はやめに床に就き爆睡を楽しむ。

なにか夢をみているのだが、内容はおぼえていない。
覚醒時のいろいろをリシャッフルしているのだろうが、気持ちよし。

世の意識的な徴表は、どうも喰えないこと多し。
原子工学の利権団体をあらわにする学会が、慎みのかけらもないアナウンス。
与太な御仁が、病人へのヘイトスピーチ、食っていくには目立った方がいいと広言する炎上商法である。
病院で毒物投与され死亡として捜査開始とか。
異国での騒乱紛争に比べればまだましかもしれんが、ネット時代は便所の落書風が跋扈する困った時代でもある。

休みだったはずの図書室だが、すでに予約本の到来がUPされている。
朝一で受領可だ。
雨なしを祈る。

覚醒時も、夢の中も、カオスがストレスフルな時代だが、平常心が大事。
今日もああでもない、こうでもないで進む。

2016年9月23日金曜日

雨がシトシト金曜日~♪

雨基調の一日、インナーで過ごす。

silver weakということで、図書室が動かず、結局次に借りようと算段していた書籍を、ネットでさまざま検索して、実際に借りて通読するより実のある思考実験ができた。
ネットのアカデミック記載もほんに充実している現代である。
ロシア文学者の「私の大学」は、いまやネットにあり。

利用中のプリペイドSIMや月決め最低フリーSIMコースも、悠々であり余るライフスタイルと自己診断する。
2プロバイダーを利用中のプリペイドSIMも利用期限が来たら、ひとつは自然消滅させてもいいだろうと判断した。
このうんざりのプロバイダーは、某ナショナルキャリアの子会社で、プリペイドSIMにも関わらず、とことん個人情報を引き出し、箸の上げ下ろしにも容喙せんかの体制だ。
そういう面倒を忌避してフリーSIM購買に及んでいるのに、ウザったいことこの上ないが、同意見が当該プロバイダーに集中しているので、わが偏見ではない。
己のやっていることをわかっていないかのサービス提供者は、さっさと縁を切るのが現代的賢明さである。

とにかく、先般この親会社から離脱し、フリーSIM等安価なこれらツールを選択したおかげで、通信費は従前の10分の1以下になった。
独占による暴利に10年以上のずいぶんと長い期間に渡っておつきあいしてきたが、やっとリーゾナブルな環境にたどり着いた。
こういうデフレ傾向は、マクロのリフレ派的建前を離れ、大好きである。
こんな消費者をバカにした邪道で、独占経営によるユーザー収奪的環境を維持しようとするのは、アナクロな愚行であり、なんの合理性もない。

こういうプロバイダー相手の金銭的合理化、環境整備だけでなく、このところメーラーのスパム振り分け機能をうまく使って、ずいぶんと情報処理がうまくなった。
世はスパムを送りつきて、てんとして恥じずの風潮が横行している。
少し前までは、わずかに良識あろうと思い入れのかけらが残っているサイトから、迷惑で不要としか思えない着信があれば、腹のひとつも立てたが、いまや政府であれ、大企業であれ、こちらが合理的判断からして不要のスパムライクな関与と判断されれば、素直自然に迷惑メールのマーキングで、さっさと迷惑メールのフォルダーに集め、件名チェックの上、瞬殺するので、実に見切り千両のプロセスが確保できて気持ちがすっきりする。

ところで、今日は目玉焼きにやっと自信を持つことができ、ご満悦だ。
目玉焼きなどは鼻歌で出来そうなものだが、自分が食したい状態にもっていくのは、それほど容易えない。
ひとつ間違うと、焦げ付かせてしまう。
それでも自分が食するに、大した不自由はないが、やはり自分が着地したいところにピンポイントにもっていけてこそ料理である。
目玉焼きだけでなく、すし酢の使い方をレシピなどから検討し、次の買い物や調理に思いを巡らせる。

目玉焼きのような超シンプルな私事から、核戦略や宇宙戦略の俯瞰、プリゴジンの散逸構造論やラジオオートグラフィーの先駆者シェーンハイマーの人生等々に思いを馳せる。
他人とは距離をとることができても、自分という存在はとことん自分につきまとってくる。
他人様はひとまず棚にあげ隅に置いても、自分自身にはしっかり構ってやるほかない。
うまく統合性を指向すれば、ちょうどよい状態に浮動させることができる。

無理は禁物だ。
わが生地の和歌山の県庁所在地で、70歳すぎの女性が孤独死した。
彼女は花屋を営んでいたが、買い物難民のため、花屋の片隅に、高齢者の購買ニーズのある野菜その他の商品を産地から精力的に集め、販売していたという。
ところが、2日ほど店が開かなくなり、利用者の警察通報から孤独死が確認された。
仕入れ活動の無理が祟ったのか、最近身体不調を訴えていたが、それでもそれを押して頑張っていたという。
田舎でも、県庁所在地程度のところには、必ずといっていいほど買い物宅配業者がエントリーする。
キャパを超えた無理は、必ずつけが来る。

ミッションは淡々と一期一会を積み重ねていくのがいい。
わんこらにも、そう言い聞かせている。
おまえらは飼い主のために生きているわけではない。
逝った仔のように、精一杯生きて、大往生小往生すれば、それでいい。
うまく看取ってやれれば、わが成功だが、保証はどこにもない。




秋雨朝一朝市まわり

秋雨がそぼ降る中、朝市風のスーパーの(仮)始業タイムにラウンドする。

このスーパーは、競業他者よりはやく、朝一で食品等の一部のフロアをセミオープンする。
出勤前のサラリーマンや通学中の高校生が朝や昼のエネルギー源を調達に寄る姿が目立つ。
自分のような時差ショッピングが可能な人間にとって、天上天下唯我独尊までいかなくとも、お気楽極楽のナビゲーションができて、快く、愛用している。

スマホに購買対象の物品を書き留めているので、買いすぎはしないのだが、自由闊達にショッピングできる環境は、どうしてもフットワークが軽くなる。
所詮買い溜めて置いた方が利便性の高いものにだけ手を出すので、特に浪費にはならない。

今日も、とあるSNSで立ち話をして、日本社会の過剰同調要求性は窮屈だねと話し合ったが、このところだいぶ変わってきているようにも感じる。
最近、youtubeで何べんも観た、最新作の「渡る世間は鬼ばかり」の特番アーカイブでも、親が子に自分の夢や希望を投影して軋轢の生じる姿が描がかれ、各自がシナジーでそれぞれのモチーフを実現していく賢しさが必須として、上手な協働、一丁噛みを勧奨する物語が展開されていく。

情報社会で、転変の激しいこの時代に、社会や他人と軋轢ばかりに陥る悪弊を避けて、うまくすべらずにコーワークしていくというモチーフが、著名なホームドラマでも全面展開されている。

ゆっくりまったり、この材料でああしたら、こうしたら面白いかもと、朝市風の品揃えをアプリシエートして、また早出の店員の下ごしらえの姿をみて、いろいろとこのところのマーケットのトレンドを推量する。

時間や場所のニッチは、ネットでも、リアルでも、そこここに転がっている。


竹光を磨く

昨日の伊集院光氏の「らじおと」のゲストは、佐藤B作氏だった。
鼎談で、やはり秀でた俳優は、時代劇で刀を腰に差して演じると、抜けばすごい名刀だろうなという感じが出せると話していた。
巨匠黒澤明監督が、演出で拘泥したのは、そのような質感、「リアリティ」だ。

これは演劇のような芸事だけの話ではない。
職人は道具を大事にする。
仕事は道具を使ってのことだから、神棚に上げておいても意味はない。
ちゃんと使える状態を維持する。
そういうことも職人の能力、実力である。

この頃やっと気づいたことだが、家事その他の日常茶飯事で、ツールをうまく、大事に使えないところでは、必ずといってぼろが出る。
出来上がる作品と道具の間には、必ず連関性があり、コツがわかっていないと、そこがネックになり、もうひとつの結果となる。
料理をこがせば、フライパンもこげ付きで次回の料理が困難になる。
仕込み、火加減、時間、味見、ポイント凝視、なにかがわかってないと、すぐにボロボロになる。

ところで、わが生活のハブのひとつに、通信その他の交通手段がある。
これも常に磨いておかないと、ダメ出しの羽目となる。

モバイル端末の調子チェック、充電、通信環境の干渉排除、セキュリティその他もろもろ、なにか手抜きで失敗すると通信不能に陥る。
毎日のように、点検、充足をはかる。

ほとんどが、シミュレーション、テストばかりで、滅多に業務に供することはない。
全体の繁忙度や質も、抜けば切れる名刀の必要はない。
そこを間違うと、己への凶器ともなり得る名刀を振り回して、自分の足を切ってしまうような悲喜劇を演じかねない。
竹光を磨いて、武蔵のように遁走や退却を選んで、負けない勝負を指向する程度が、自分にはいいように思っている。

ということで、いまもPCにエネループをつなぎ充電しながら、通信ドングルやSIMなしスマホを揃えて、外回りの準備をしている。
さらに無料ファックスのサービスで、固定端末の受信能力をチェックしたり、買い物のプライミングに冷蔵庫チェックに励んだり、マルチタスクで動いている。

養老大先生が説かれる、手入れはホンに大事である。

渡る世間が鬼ばかり

別にドラマの題名がはじまりではない。

うんちくを調べてみたら、日本では「渡る世間は鬼ばかり」ではなく、もともと「渡る世間に鬼はなし」という諺があるという。
その謂いは、「世間には鬼のような人ばかりではなく、親切な慈悲深い人はたくさんいる」 ということで、つまりは「渡る世間は鬼ばかり」と言っても間違いではない。
外国には、「Good folks are rare.Reality is cruel.」という言葉があるという。
まさに「渡る世間は鬼ばかり」そのものだ。

ところで、このところ「渡る世間が鬼ばかり」化傾向が顕著である。

昨日も、先の参議院選挙で当選した青山繁晴氏が、ホームページ等に非常に攻撃的なアクセスが看過できないと語っていた。
もともとアクティブな右派活動家であるから、国会議員ともなれば、どんなささいなことででも失脚させてやろうという人々が手ぐすねを引いているのは、特別に不可思議なことでもない。
ただ、目に余る行為で第三者に損害が生じてはとの考慮で、彼のホームページもコメント書き込みにかなり防御的なバリアを張るような態に転じている。

ところで、マウスも単独で相手の顔も見えぬ環境で居ると、攻撃性が非常に強くなる現象がみられる場合があるという。
現代のネット環境でのフレイミングに、顔も知らぬ相手に、人を人とも思わぬような罵詈雑言をぶつける現象などがよくみられるが、人間もネズミに似た攻撃性の虜になり易い趨勢にあるのかもしれない。

もちろん、諺と同じく、理不尽な攻撃性の対象になったからといって世間は鬼ばかりではない。
敵が千人、四面楚歌でも、さりげない暖かい目やバランスのよい視線でみている援軍もいるものである。

この辺りの機微は、実際にさまざまな経験でわかっていくほかはないが、前記の青山氏のごとく、リスクに気が付けば適宜なプロテクションで落としどころを探るというものだろう。


2016年9月22日木曜日

秋いろいろ

お彼岸で、陽の落ちるのもかなりはやくなり、夕べは少し肌寒い。
だが、まだストーブを焚くほどのことはない。

9月の半ばとなれば、今年もあと三か月あまり、100日だ。
日々の雑事にまぎれていると、時は走馬灯のように去っていく。

人生が、諸事の味わいのすべてとすれば、ほぼ平らげたアイスクリームの器に残った小塊をいじましく掻きとって吸っているようなものか。
特に今まで味わったことのないようなストレンジなテイストではないが、こんな味わい方は初めてゆえ、面白がる値打ちはある。

さて、本来の味覚の秋だが、主夫的感覚が沁みつき、特別に手をかけて旬の味覚を味わおうというような気持に乏しい。
安価で、加工に面倒でない素材に出会い、偶然に創作意欲を刺激するような稀有な機会に遭遇すればトライもありだが、もともとそういう意欲は強くない。

今日明日と図書室が休みなので、外回りの必要性は乏しい。
冷蔵庫の掃除に徹するか、それともコンビニ程度へは動こうか。

春夏秋冬、どの季節にあっても、このように日々のベーシックなロジスティック以上のモチベーションに乏しい。
まあ、日常性というのは、そういうものだろう。

とりわけ秋だからどうのこうのということのない推移である。

アングル変われば、見える世界も大いに違う

微妙な天気の彼岸日和だが、図書の到着報も届かず、自宅待機で過ごす。

ルチーンで聴取するラジオ情報番組のひとつで、今朝の新らしい発見あり。

外交官出身で、防衛大学校の教官も務めた評論家の話だ。
政治や外交では、非常に左寄りで、中国のスポークスマンのごとき御仁で、まあチャイナスクールか、反対制過去官僚も珍しくないわが国で彼もその御一統さんかと思っていつも発言ウオッチングの対象にしてきた。

そのお方が、今日は「自分は経済の素人だが」との前振りで、インフレターゲットなんて理解できぬとのたまわう。
自分のような高齢者は、年金を頼りに生きている。
それが、インフレで年金目減りとなれば、生存権にかかわる。
人口の三分の一にあたろうとする高齢者に過酷だし、若年者だって給料が目減りして生活難になるだけだと悲憤慷慨なさる。

気持ちは、それなりにわかる。
しかし、デフレが昂じれば、需給ギャップの分だけ失業者が生まれる。
若年生活困難者も、失業して口を糊する手段が消えれば、生活難どころか路頭に迷わなければならない。
リフレ派の高橋洋一氏や片岡剛志氏、田中秀臣氏だけでなく、どちらかというと左派論客の森永卓郎氏でさえ、金融財政政策でインフレターゲットを目指さなければ、社会全体がシュリンクして、経済が回らなく、失業問題で社会不安、社会問題が噴出すると説く。

ところが、上記の反体制評論家氏は、自分が逃げ切ること、若い人々の犠牲の上にサバイバル以上のことを考えない。
こういうことを平然とのたまわい、己の憶見に溺れる御仁ゆえ、隣国が核を射つ準備を着々と進め実際に射込んでこようとも、また別の隣国がわが国の領海領空に入り込んで、わが国の死命にかかわる交通路を簒奪しようとするかの行為に及ぶのをみても、他人事のごとく評論し続けることができるのだろう。

しかし、このようなことは珍しいことではない。
わが人生を思い返すと、さも似たりの能天気言動に終始したこともままある。

治療法というわけではないが、自分の謬見に溺れないようにするには、ちょこちょこアングルを変えて、己の見識をチェックする、他人様のご意見もよく耳を傾け、ストレッチ運動、柔軟体操に励むということだろうと思っている。

渡る世間は鬼が島

彼岸前に、朝も少々明けるのが遅くなってきた。
ゴミ捨てに出た空には、真上に半月がみえ、星がまたたく。

渡鬼を何度もみなおし、橋田寿賀子ワールドを堪能する。
橋田脚本で渥美清の出世作品群に登場した役者さんが、元気に演技しているのをみて、ほんに高齢社会だとしみじみ感じる。

泉ピン子演じるラーメン屋のおかみが、偶然手に入ったお休みで、係累の家に邪魔をしまわって、どことも敬して遠ざけられる姿をみて、日本のある種の円熟を感じる。

日本人はおめでたい。
老若男女左右上下を問わず、その気が強い。

赤軍派は、国際テロや北朝鮮渡航で、世界の顰蹙を買った。
日本軍が八紘一宇でジャパニーズドリームを押し売って、いま安倍さんがつけ払いに世界中を駆け回っている。

桃太郎が鬼ヶ島に渡って、手柄をたてるのが、日本的英雄の原風景だから、ちょいと調子に乗ると、鬼ヶ島にいって鬼退治に成功するといいなと思い込み易い。
まわりも、失敗すると、てめえが鬼になっちゃったと論難するが、成功すると立志伝中の人として持ち上げる。

われわれは、そういう風土に生きているゆえに、そういう心性に警戒的、自制的でなければいけないが、そういうつましさを失いつつある。

今回の渡鬼で、主人公の女性がそれを悟り、まわりもお節介が失敗する姿が描かれているのは、橋田寿賀子女史の現代的センスのなせるわざである。

鬼に屈服することなく、鬼も泣いたり、惻隠の情を持つこともあることを知り、上手に鬼退治というよりは鬼あしらいに上達していくのが現代的知恵というべきかもしれない。

2016年9月21日水曜日

渡る世間は鬼ばかり

直近アーカイブを、youtubeで何度かrefrain。

泉ピン子演じるラーメン屋「幸楽」の女主人の今がテーマだ。

夫の角野卓造は、セミリタイア気分で、オヤジバンドの活動に一心不乱。
妻にも、上手にリタイアせよと説く。

しかし、妻はスタンドアロンの道を見つけられず、嫁の家や、旦那のバンド、その他各所に出張って、敬して遠ざけられる。

自分は、相手のことをおもんばかって助力にと猪突猛進するのだが、そのターゲットになった人々は、孫に至るまで迷惑千万、やめて頂戴モードで対する。

橋田壽賀子ドラマは、旧い家族関係を描いてレトロな風に見えて、その通用性の破綻を描いて秀逸である。

このような橋田ドラマも、まだましな予定調和を描くことができている。

現実は、パラサイト子弟と、しがらんだ親世代。
あるいはへたった親と介護離職。
子供虐待、一家心中など、目も当てられない現実のオンパレードである。

それでも、社会は解決を模索するほかない。
答えは、ドラマのようにはない。



net miscellany

G+のFollow先と参加community整理がほとんど完成したのか、意識的にFollowしている幾許かのサイト以外滅多に浮上してこない。
それでも極たまに残存Follow先として浮上してくるところがあるので、不要先外しは、ささやかに残務として存在するようだ。

他のSNSは、十分にトリミング済だが、向こう様は放っておいてくれず、こちらが頼んでもいないアーティクルが浮上する。

たとえば、通信販売サイトでは、自分が検索したことのある商品やサービスをカスタマイズして掲示してきたり、メールで送付してくる。
買い物の大きな部分を、この大手外資通販に依存しているので、向こう様はこちらの趣味嗜好欲求は知悉している。
興味が既に失せたモノやサービスには、まったく感応しないが、未だ欲しいが諸般の事情で自制している対象では、実に悩ましい気分になる。

人付き合いのSNSでは、これはお前さんの知己ではないかとか、このサイトには興味はないかなどと五月蠅い。
まあ、こじんまり続けることにしているので、スルーするだけだが、発想は通販などと同じで、利用者のプライバシーを勝手にプロファイリングして煽ってくる作法は、使う方としては、あまり気持ちのよいものではない。

ところで、独白サイトで、どこかの大学の准教授が、最近話題になった女性政治家をディスって「差別だ」「名誉棄損だ」との反応が殺到し、そのサイトから撤退したが、ポリティカリーコレクトネスにうるさいこの時節、大いなる蛮勇というべきか。
暇なネット雀は、魚拓をとったりしてすぐに人物特定をするゆえ、それを覚悟の上で及ぶべき行為ではある。
まあ、云うべきと思うことを飲み込むばかりでは、腹ふくるる思いで、生きている甲斐もなかろうが、物言いのTPOは気を付ける必要がある。
ヘタをすると、物言いの問題だけでは済まなくなる。

炎上しないよう、業者に振り回されないように、モディストにやれば、穏当に暮らせて無難だが、平板になりやすい。
スリルとサスペンスは面白いが、炎上だけでないリスクや副作用、ピットフォールが待っている。

全体で己の身に合うようにカスタマイズするほかない。

わがこと、ひとごと

朝のゴミだし、雨なし。
特に寒くもなく。

朝のBGMのお題探しで、渡鬼に遭遇する。
最新版アーカイブで驚き。
話の進み具合どおり、登場人物の加齢具合にしみじみ見いる。
サザエさんのようなアニメならまぬがれるところが、実写のなまものなら、こうなるが必定である。
当然にテーマも高齢化が前面に出ている。

朝一ネットサーフィンの某書評から、ウイキ等で著者の学的業績を検索する。
多作精力的な高齢者であるが、セクハラ辞職の話題も散見される。
旧帝大から逃散し、私大に拾われている。
政治家も、企業家も、学者も、精力的なご仁は、本業も、フェロモンの発受信も精力的である。

朝の料理を手短にすませる。
自分やワンコの食い扶持なら、気楽に作ることができる。
これが調理人だったら、こうはいかない。
ほんとうに好きなものは、仕事にするなという。
仕事になれば、自分を基準にはできない。

仕事がらみの検索をしても同様な思いをする。
自分の懸案事なら、この辺りを目指して、こんなおとしどころを模索するが、クライアント相手なら、そうはいかない。
自分にとってはどうでもいいと思えることでも、他人様の思うことは、自分とは異なる。
これが私事と仕事の違いである。

ただ、仕事でも、完全に自分なくはできない。
とてもそのようなモードを求められても、結果は出せないと判断されることごとは、謝絶するほかない。
この時代、当事者が当事者の殼に籠って手筋のよくないスクリームを繰り返すケースが少なくない。
よって、乗りにくい環境だ。
金融緩和に力を入れても、なかなかまともな借り主が得にくいというデフレ時代の風景に似る。
昔と違った難しい時代性ではある。

2016年9月20日火曜日

brush up

図書室回りやスーパーショッピングの前後の時間を使って、G+のフォロー先のフォロー外しを完遂した。

いっときむやみやたらにフォローしたり、コミュニティに入ったりして、満艦飾だった画面が、ジャンクなレイアウトになることに気付き、やっとこ撤退モードに転じた。
入るのも離脱するのも、ポチポチすれば出来るものの、数がかさむと緩くない。
途中で、他のSNSで知り合いの面子も浮かび上がるが、みるとほとんど休眠中だ。
ひとの活動能力も、質量一定エネルギー一定の法則に従うから、主力の場所以外はブッキングのみの一丁噛みになる事情はよくわかる。

無手勝で登録し、離脱に苦労するなんて愚行も、やってみないと頃合いはわからない。
まあ、経験に無駄はなく、君子豹変ならぬ愚者豹変で、頃合いのニッチを見出すことができれば、それまでの愚行は無駄でないような人生観を持っている。

朝は実に肌寒いと感じた天候も、昼過ぎて暖かく丁度よい。
冷房も暖房も必要とせず、窓を開けたり、庭に出てリラックスしたりで、春秋は暮らして快い短いパラダイスだ。
事務的仕事の倦怠に、箱庭風自然の味わいで気分転換を図る。

登録先の削除で、登録した先の管理者が、メンバーより先に足抜けして、ノミナルになっている現実も知る。
ネットの時代の動きははやく、当事者も実にカプリシャスだ。

面倒な作業でそういうことも思い知る。
まずまずのbrush upと総括する。

イリュージョン

晴れている。
明るくなるにつれ暖かくなってきたが、暗いうちは寒かった。
朝風呂でしのぐ。

身体と心をだましだまし快適に動く工夫を続ける。
季節が変わっても原則は同じ。
わんこらも毛布とクーリングボードをうまく使い分けている。

先日読んだ動物行動学者日高敏隆氏の「生物はイリュージョンで生きる」という言葉を思い出す。
ニワトリは、ヒナの鳴き声で危険や助けを察知してかけつける。
ヒナをガラス瓶の中に入れて、鳴き声が聞こえないようにすると、ヒナが瓶の中でいくら助けを求めるような動きを見せても、親はまったく反応しないという。
ニワトリにとって、ヒナの鳴き声がレスキューコールのリアリティであって、その他の刺激は導きの糸にはならない。

人も似ている。
理屈、イデオロギー、宗教、嗜好その他ニワトリの鳴き声に相当するイリュージョンに反応して動く。
このことは、日高氏のような動物学者だけでなく、吉本隆明氏のような思想家や岸田秀氏のような精神分析論学者が共同幻想論として論じている。

ところで、イリュージョンというと、大仕掛けの奇術のことも指す。
上手な奇術は、楽しいエンタテインメントで、だまされてわくわくする。
ひとは、承知で騙されて喜ぶ性癖も持っている。

政治や経済、軍事や日常生活にも、イリュージョンに満ちている。
気が付けば、怖気づいたり、狂気に近づいて己が潰えてしまう状況でも、イリュージョンに助けられてながらえられることもままある。
もちろん、思い込みや精神主義で乗り越えられることばかりではなく、厳然とした因果の流れでポシャるケースも多い。

そのあわいを考えながら、玉ねぎの皮剥きに励んでいる。

秋深まる

東の方では、霜注意報が出ている。

部屋の中でも、残暑気分でいると、夜や朝は肌寒い。
気を許すと風邪を引く。

いましばらくすると、ストーブを使って、こういう時をやりすごす必要が出てくる。

暑いときも、寒いときも、一番は動くこと。
暑いときは、汗をかいて、脱水気味になるが、じっとしているとエコノミー症候群が危ない。
コップに水での水分補給や末梢を動かしての良循環確保のために動いた方がいい。
寒いときは、動くと固まった身体がほぐれる。
寒暑いずれにせよ、ひたすらじっと耐えるパターンはあまりよろしくない。

情報も固まらないように、動かす。
プリペイドSIMも、まったく使わないと、リソースをどぶに捨てることになるだけでなく、肝心のときにうまくシステムに乗れない。
緊急対応職種と同じく、こういうことは訓練が実戦の一部となる。

調理や掃除もそうだ。
適宜に動いて、陳腐化した部分を捨て、ちょぼちょぼ、あるいは大ナタを振るって、棚ざらえや棚卸をする。
そうすることで、日々の機能を確保まっとうできる。

知的好奇心も同じ。
疑問やSNSなどで暴論と思う相手の論に対して心に浮かぶ反論は、その場その場でそこそこ己が得心できる暫定的結論まで検討する。
これを続けると、ひとりよがりでない適切で穏当な知見に近い位置に到達できる。

秋は冬に向かう寂しい季節のように思われているが、それはそれで最高の味わいだ。
冬もそれなりに悪くはない。
どの季節も、生きているだけで大儲けではある。


2016年9月19日月曜日

真っ白な陶磁器を~♪

まったりと詩的な一日を過ごすのがあらまほしと思えども、実際は貧乏性な、ああでもないこうでもないの一日を過ごしてしまう。
小椋佳の歌のようにはいかない。

今日も軍事や政治、科学、その他あまりまったりとしないテーマを考えながら、ネット検索等に励んだ。
先行世代に対しては、そこまで生きれば、右も左も上も下もどうでもいいではないかと他人様には内心でそんな心証を吐露しながら、己もさもにたりの夕暮れを過ごしている。

午後はしっかりと晴れて、さきほどもしっかりとわんこを遊ばせてやれた。
まずまず快い三連休であった。
明日は世も連休よりは動きに富んで、わがアクティビティもささやかに向上するか。

今年は庭の紫陽花もささやかに花開いたが、野ばらはただジャックと豆の木のように上に伸びただけだった。
草花にも眼がいくが、芽が出て、花開き、散っていくことには、自然の感興がわくだけだが、動物に対してはどうしても生死を気にする思いが強くなる。
情緒というのは、理屈ではなく、ほんとうは情緒に理屈がついていくのだと思う。

存在するというか、そのままの、、、実存、現象がまずある。
鏡像は、左右逆になるが、上下はならない。
レンズの学問は、われわれが見ているのは倒像だと教えるが、実感の上下左右は、こうして生きている己の感じる上下左右だ。
天が落ちてくるかもとか、隕石で命運が尽きるやもという不安症があったり、電波系とかつて揶揄された妄想症候はあっても、世界の倒像がおかしいとか、左右鏡像が云々といった精神症状は寡聞にして知らない。
こういう悟性というか、感性はきっと人間も動物としてしっかりビルトインされているのだろう。

もう残り少ない人生、ただただ斯くの如きよしなし草を、兼好法師のように書きつける暇も精力もなく、情報社会や転変の激しい高エネルギー代謝の末法の世をひたすら味わって過ぎていく。
その辺りが、最適解かどうか知らねど、わが流儀と思い定める。



晴れたり曇ったり

気象情報の示唆するとおり晴れたので、庭に出ようとわんこらを誘う。

彼らは食い意地が張っているいやしい系で、必ずと言ってよいくらい、外に出る前にエサ皿に顔を突っ込む。
外に出ている間に誰かに盗られるわけでもないのに、それが性癖となっている。

今日もその外出前儀式の間に、また小雨がポロポロしてきた。
おかげで、庭の滞留時間もごく短くなり、次の晴れ間を狙うことになった。

今日の天気は、こんな繰り返しのようだ。

こんなコロコロ転変モードで、ネットをいじる。
ふと、いままで抜けられなかったとあるМLからの離脱方法を思いついた。
ちょっとカルティックな雰囲気を持っているグループで、管理者もちょいと癖があって、会員を無理くりに抱え込もうとする性格傾向が大だ。
そういうのが窮屈と思い始めた頃に、何度か自分で脱会符丁をプロバイダーに送ろうとしたが、成功しない。
管理者も、それらしきメールを受け取っているのかどうか定かでないが、外してもらえる気配はない。

今日、そのМLが利用しているプロバイダーのマニュアルページに行きつけるかもしれないと思いつき、適宜な検索で、解決策記載のページにたどりついた。
うまく会員を外せたというインフォメーションメールが、プロバイダーから届いた。
実にすっきりして気持ちがいい。

エシュロンだって、Google、Amazon、Microsoftその他もろもろの企業も、しっかり個人情報をholdして、われわれの生殺与奪のパワーは持っている。
しかし、場への出入りくらい自由にできねばたまったもんじゃない。
やっとこ、ささやかな解放感を得た。

ちょっとしたライフスタイルの修正改変を自家薬篭中のものとして、自分らしく振る舞う。
晴れようと曇ろうと、口笛の出るように工夫はする。

男心と秋の空・女心と秋の空

近所のコンビニに向かうと、ちょいと小雨が降りはじめる。
さっきまで陽光がしっかりと差していたのに、変わりやすい空模様だ。
特に散歩に支障がないので、戻らずにそのまま往復する。

自分の調理だけでは、薄味で、それはそれで大きな不満もなくヘルシーなのだが、たまに既成の味が恋しくなり、中食パターンを所望することもあり。
パンやパルメザンチーズなどの食材を調達する以外に、弁当や半生焼きそばの袋も一緒に買って帰った。

空を仰ぐと、どんよりとした雲が流れていく。
風もあり、あれが流れていけば、多分日が差すのだろう。
帰って気象情報に耳を傾けると、同じ市街地でも、場所場所で区々、それも短時間で変化しているようだ。

こんな天気だし、加えて図書館本は連休モードでデリバリーはなし。
よって、雨や晴れにかかわらず、インナーライフを維持の予定である。
情報端末をいじっていると、退屈はしない。

コロコロと変わる天気に合わせて、まるでこちらも波動するが如く、シンクロして遊ぶ。
男心も女心もお天気も、変わるから面白いのかもしれない。

日和雨

朝の陽ざしが明るく入ってきたので、庭に出てみると、小雨に濡れる。

天気予報によると、これから晴れに向かう様子で、無理せずにすぐに家なかに戻る。

なんの祭日か知らなかったが、今日は敬老の日らしい。
爺くさい生活だが、まだ前期高齢者にも入れてもらっていない中途半端な季節。
ところで、この転変の激しい時代、敬老の日も、敬して遠ざけていただく記念日かもしれない。
どうしても年が寄れば化石化は進み、自分が付き合う先行世代の人々にも、ほとんど漏れなくうざったさを感じるので、しっかりと他山の石として自戒しなければならない。

敬老の日、朝方から、安住紳一郎の日曜天国とオードリーの深夜放送の最新アーカイブを聴く。
前者の愛玩動物投稿で、インコがもう寿命かと思うほどグッタリした姿に、獣医のアドバイスに従ってアガリスクを投与したら復調した話、うちも補中益気湯でも飲ませてやればよかったかとふと思う。

後者の話題で、若林の財布喪失譚を聴く。
ドトールか、スタバか、某著名チェーンコーヒー店で、トイレに入った若林氏。
置き引きを恐れて、財布を持って、トイレに入るが、個室式の手洗いの横に財布を置き忘れたという。
一時間半ほど後に財布がないのに気づき、再びトイレに入るが、すでに亡失していた。
置き引きに間違いないとの結論で、クレジットカードとキャッシュカードの停止にかかるが、焦っているので、なかなかササッといかないが、それでも何とか止めることができた。
その後、派出所に紛失届を出し、各所で健康保険証や運転免許証その他の再発行に奔走する。

これらの負担は、若林氏に特異なことでなく、伊集院光氏も深夜放送で、後に出てきたものの、紛失届で失効させたすべてのカードや重要証明書の再アクチベーションに多大な精力を奪われた経験談を語っていたことがある。
わが知人からも、最近似たような経験をして、大同小異の苦労を味わったという述懐を聴いたことがあるが、ほとんどが電磁的手段でID認証される時代、どうしてもそういうものを一塊に財布やポーチに集め持つ現代人、窃盗や紛失で、瞬時に相当不自由な迷子になるよう運命づけられている。

わが経験でも、すべてを失くしてしまった経験はないが、ニアミス的体験はいくばくかある。徒然草ではないが、所有物よりなにより、自分が生きていること自体が貴重との考えを持って動いてはいるが、命が確保でき、ながらえられたときに、大事なリソースを一挙に奪われるのは、これまた致命的な苦境につながりかねない。
窃盗や紛失でなくとも、ひとたび入院などで個人認証が困難になると、下手をすると、預金その他が一瞬でフリーズされるに等しい状態に陥りかねない。

そういうことを思いつつ、段々とアビリティが落ちてゆくわが加齢をみつめて、ささやかに人生を自愛、敬愛する日とすることとする。
日差しがしっかりしてきたので、こまめに庭遊びに興じることができそうだ。

2016年9月18日日曜日

秋深まる

秋雨前線と台風の影響か、小雨が降ったりやんだりしている。

合間をみて、庭に出たり、ミニ外回りに赴いたり。

部屋の中で、ノスタルジーにひたってばかりいるのもよろしくない。
生物は、ミクロだけでなく、マクロでも動いていないとダメになる。

料理のモード、買い物のモードも、員数の変化で相当ちがってくる。
2で割ったり、3で割ったりしながら、3で割ったり、4で割っていた頃を思い出す。
別にブッダに諭されなくとも、辛い思いのまったく不在の家などはないことは知っている。
しかし、どうしても年月日を詮無く数えてしまうのが、人間の性でもある。

このところ、youtubeで眺めるのも、図書館本で読書するのも、テーマを備忘しながら、自分で演出する方向に向かっている。
SNSも同じ。
つかず離れず、必要や欲求を感じれば、肉迫していく。
特に具体的必要でなく、ふつふつとわいてくる知りたいというドライブで動いているから、実にお気楽極楽だが、他人様へのなぜかなぜならばでなく、自分の得心、腑に落とす作業だから、実に忌憚なく快い。

今に集中しているから、ふと気が付くと季節に追い越されている。
まあ、無意識では了解しているようで、暑ければ脱ぎ、寒ければ着る。

決して日々是好日と十分に自己満足できるほどの日々ではないが、きっともっとミゼラブルな状態よりはハッピーなんだろう。
悪くはない。

山田太一ドラマと笠智衆さん晩年の名演

ネタバレご容赦で、ふたつの作品について語る。

「ながらえば」

1982年作品。

笠智衆演じる主人公は、息子の転勤にともなって、名古屋から富山に移り住むことになる。妻は名古屋で入院中で残っている。富山に引っ越した翌日、彼は名古屋に行きたいと言い出す。息子夫婦は昨日の今日にと説得するが、彼はわずかな金しか持たず、息子宅を飛び出す。無銭宿泊した宿屋の宇野重吉演じる亭主の好意で、旅費には十分な金員を貸し与えられ、名古屋に向かう。宿屋の亭主は、その日奥さんを亡くし、彼の妻に逢いたいと気持ちを痛いほどわかってしまうのだ。彼が必死で名古屋に向かったころ、妻は危篤の状態にあり、すんでのところで回復していた。男は妻に、お前のそばに居たいと繰り返すが、自分と妻、息子たちの状況を飲み込み富山に帰る。

「冬構え」

1985年作品。

笠智衆演じる80歳近くの主人公は、6年前に妻を亡くし、ひとり身。自殺念慮を抱え、東北の旅に出て、とある旅館で若いカップルに、資金援助の振りでなけなしの金を与える。しかし、そうしても自殺にも失敗し、死ぬことはできない。金を与えた青年と訪れた寒村で、青年が自殺を思い留まるように説得を頼んだ老人から、諭され誘いに乗ってここで生きなおそうと思いなおす。


どちらの作品も、老いの岸辺を描いた作品だが、山田太一氏のモチーフは「岸辺のアルバム」以来、家族、個人のゆらぎだ。

高齢者に限らず、われわれは常に孤独の淵にある。
文明の利便で、ひとりの方がお気楽極楽、利害得失でこちらを選ぶというのは、現代社会のトレンドではあるが、これらドラマで描かれているとおり、最期の最後は緩くはない。
笠さんのぶっきらぼうにみえて、味わい深い表現が、その足元を照らしてくれる。

2016年9月17日土曜日

土曜の午後は~♪

予約図書の収受のためお昼の外回りに出向く。
今日も運動のためバス&ハイク。

ついでに回ったスーパーの百均で、金魚の飼育道具を購入する。
ペットロスで当面生き物はパスといいながら、格好だけでもそろえてしまうアンビバレンシー。
学生時代、おまえは情が厚いようで薄い、薄いようで薄情でもないと肴にされたのを思い出した。
まだまだ実際に飼う気にはならない。

雪駄も欲しかったのだが、百均にも、ホームセンターにもなし。
まあ、あれば欲しい程度のもので支障はない。
それにしても、百均でひとそろい色々と物色して、600円あまり。
デフレのマクロ問題はあれど、われらが貧乏人には大きなアシストではある。

借りてきた科学対談集で、ブリゴジンの散逸構造論を知る。
教授師匠と論争した際に、ブリゴジン氏的なことを知らず知らずに思っており、市井の端で夢想することで、しっかり突き詰めてノーベル賞をもらう学者もおり、養老師の云うように、その時代その時代で同じようなことを人間は考えるもんだ。

さて、ネットのトリミングも定常状態近くにまでもってゆけ、通信や事務の態勢も大体整った。
利便性を接ぎ穂していくべきものは、それなりにセレクションや整備をして、お蔵入りさせるべきものはジャンク箱に整理した。
他人様からみたら雑然さになんの変りもないだろうが、己が置くべきものを置くべき所に置いて、うまく稼働させていくという、まさにそれが手入れ、断捨離であるが、非常に大事なことである。

silver weekというそうだが、わが家では、メメントモリの秋休みになりそうだ。

やればできるじゃん

台風の影響からか、夜半から大雨の音が響く。

朝方、一応やむ。

庭に出るが、足元は滑る。

早々にうち中に戻る。

ネット一回りで、昨日とりかかった旧いコピー機のリフレッシュ作業にかかる。
ああでもない、こうでもないと取説みながらやってみると、無事まがりなりのコピーが可能な状態に戻る。
何が書いてあるかの備忘や伝達、証明ができる程度には稼働する。

G+の野放図なフォローのつけを、清算中だが、ほぼ定常状態に落ち着く。
このままときおり飛び込んで来る新投稿を脱フォロー手続きしていけば、自分がこじんまりと利用したいと思うスケールで使うことができる。

紆余曲折、右往左往の中で、自分なりのありようを紡いでいく。

やればできるじゃん。
やらなければできない。
やれることをやり続ける快楽。

2016年9月16日金曜日

万事塞翁が馬

連休前だが、特に予定はない。

暇つぶしにPCをいじっていると、ふと紛失していたコピー機の電源コードのありそうな場所のインスピレーションがピピッときた。

電源コードだけ捨てるわけもなく、きっとコピー機を載せていた台の裏か下あたりにあるに違いない。
見事にあった。

電源を入れてみるとちゃんと作動ランプが光る。

もう製造中止になったオールドファッションで、ひとつ故障すれば、もう修理も望めない。
ただ、大型ごみに出す前に動かしてみるのは悪くない。
白黒コピーで済む用件なら、なかなかPCの指令を聞き入れないプリンターや原本を忘れてきかねないコンビニのコピーより、楽で安全だ。

久しく使っていないし、新品のトナーを入れたり、給紙システムの復習もしないと使えない。
これから取説をボチボチ読んで使える状態にもっていこうと思っているが、気をまぎらわせるように、天が手仕事を与えてくれたのだろう。

上手に一喜一憂しながら、落としどころを万事塞翁が馬、まあどちらでもいいかとやりすごしていこう。
そんな風に思いながら、秋の日差しを見つめている。


晴れた空~♪

昨昼の驟雨を忘れてしまいそうな晴れた朝空だ。

久しぶりに、公園に出かける。

この夏は、まったくといっていいくらいインナーの生活だった。
飼い主も、わんこらも、暑さに弱いことから、庭にはずいぶんと出たが、家を離れての近場のスポットにさえ出かけなかった。
実際に、先代のやんちゃ坊主を昼下がりの散歩で熱中症で逝かせてしまっていたので、ひたすら屋内とたまの庭遊びでしのいだ。

秋の朝の公園は、ひとりで散歩する人、われわれのようにリードを引っ張って朝のひとときを楽しむ人、いろいろだ。
鄙のそのまた端っこのスポットなので、出会うのもたまさかだ。
リードを引きながら、ノスタルジーにひたっていると、経つ時間は、はやい。

あわてるつもりはないが、ゆっくりと鎮魂の近場ラウンド、少し遠出のツアー、かつてみんなで行った場所の巡礼ツアーを重ねていこうと思っている。

足場は濡れていても、気持ちは、今朝の空のように晴れはじめているが、センチメンタルジャーニーは続く。

月はどちらにでている

中秋の名月もみれず。

朝一ごみ出しで、丁度良い空気に触れる。
バイクで朝刊配達のお兄さんが、あいさつをくれたので、気持ちよく返す。

仔らも元気に伴走する。
先一昨日の朝は、もう少し多勢だったが、諸行無常だ。

このところGoogle+のフォロー先を精勤に外す作業にはまっている。
他のSNSでも経験したことだが、膨張させたり、シュリンクさせて、はじめて今いる空間がわかったりする。

クライアントに、新たにモディファイした通信環境を連絡して、落ち着いた。
仕事もささやかな定常状態で丁度良い。
ネット知己が、お忙しでフラフラのようだが、みなその人その人のありよう、宿命のようだ。
すべてlet it beがいい。

連休が続き、一種の秋のgolden week風の季節に近づいているようだが、故事来歴も知らず、己の生活もさほど変わらず。
月の推移も知らぬが、名月に近い姿が見ることができるのなら、見てもみたいが、こだわらない。

地球も月も淡々と回っているようだ。
わがペースも淡々がいいのだろう。

2016年9月15日木曜日

キツネの嫁入り

お昼前の外回り。
距離が近く、車も運転したくない気分で、バスに乗って動いた。

往路はスムースにいったが、帰りのバスがなかなか来ない。
そのうち、急に雨が降ってきた。
生憎カサを持たずに来たので、バスに乗る前に既にそこそこ濡れて、すぐに降車して雨中を歩く。
スーパーでの買い物はサッサと済ませたが、帰りはずっと雨に濡れたまま。

別にそう思おうとするわけでないが、降る雨は、あの仔の涙か、ぼくらの涙かと思ってしまう。
特にスピリチュアルな世界観を持っておらず、学校で生き死にの客観的叙述を教わっただけでなく、呼吸せず、さすっても、つねっても微動だにせず、身体が硬く冷たくなっていく傍に哀しく居たことを思い出せば、もう雨に濡れても冷たくはなかろうと頭ではわかっている。

しかし、情というのは、そういうところと少し、いや大いに違うところにあるようだ。
キツネの嫁入りで、雨は止んだが、いま頭をバスタオルで拭いている横で、犬息子は彼女の匂いの残る毛布に体を預ける格好で寝入っている。
末娘も、そのまたそばでおせらしく、まるで一緒にいた頃を偲んでいるようだ。

再び陽光がさしてくるのをみて、彼女の魂があの光の方に昇っていくのだろうかなどとふと思う。
スピリチュアリズムを標榜はしなくとも、そういう風に思い募る心性が、自分にもあるようだ。



アンビバレンシー

世話をする仔らが減って、自分の中にあったはずの矛盾した気持ちに気付く。

昔、川崎さんがМCをやっていたバラエティー番組で、夫が家出した奥さんがどうか戻ってほしいと訴えかけたセリフを覚えている。
子供が二人なら両手で抱ける。
でも、三人は両手で抱えられないの。
何とか戻って、一緒に抱えて欲しい。

確かに、キャパを超えた抱擁には無理が出る。
だから、たいていの不倫はトラブルを生み、悲劇で終わる。
めされた仔には申し訳ないが、リードの捌きがずいぶんと楽になってしまった。
哀しいながら、逆にほっとしたようなアンビバレントな気持ちになっている自分を感じる。
解放されたような、それゆえそこに自責の念も重なる不思議な心理だが、当たり前ともいえる心持だ。

大変な苦労が好きという人々もいる。
いまはなきダイエーの創業者は、「好色な人々が多方面へのリビドーに刺激されるように、自分は経営を全面展開したいという本能がわきたつ」のだと語っていた。
経営者は事業展開に、政治家はリーダーシップの発揮に、あくなき意欲と喜びを感じるゆえ、そのための苦労をいとわない。

しかし、凡人のわれらが思いは、せいぜい今感じているような痛しかゆしだ。
金魚を三十年も生かしている老婦人は、毎日のように水槽の掃除に勤しみ、エサやりも金魚の体調に合わせて微調整するのだという。
夜店で得た普通の金魚を人間でいえば100歳を超えるような長寿まで飼い得た秘訣は、旅行にもいかず、一日もかかさず、ひたすら金魚に執事の如くお世話を尽くす生活によるという。
よほど、金魚に愛を備給する魂がなければ、こうはいかない。

いま末仔の頭を撫ぜ、喉をくすぐると、生きている。
いってしまったあの仔は、あの日の朝そうしていつものように反応していたのに、昼過ぎには呼吸もせず、ゆすっても撫ぜても、身体を硬くして横たわるだけの姿になってしまった。
他人事ではない。
飼い主だって、いくら哀しんでいても、いつこの状態になるかもしれない。
せいぜい、残った仔を精一杯世話をして、何とか看取るまでが、自分のミッションだと思い定めているにすぎない。
「星守る犬」の主人公のように、もう捨犬の子犬を家に連れて帰る蛮勇はない。

生きているということは、このようなアンビバレンシーを辛くなるほど味わって、それでも戦闘的哲学者のようにもう一丁来い、永劫回帰だと云い放つことのように思える。
なんにせよ、いけるところまでいって、最期はさようならと去っていく、そんな姿を示していく勇気をなくした仔に教えられているところだ。

2016年9月14日水曜日

喪の作業

残された仔たちが、特別に死の意味を知っているわけではないようにはみえる。
逆に、はしゃいで騒ぐようなしぐさもみせる。

それでも、飼い主が追想で涙をぬぐっていたりすると、そばにきて慰めるようなしぐさもみせる。
黙って彼らの様子をみながら、喪の作業に浸っている。

シンクロニシティというか、つけたyoutubeでいきなりレクイエムが出てきたり、ちょっとしたことでもそんな因果話風に思ったりもしている。

そんな状況で黙って彼らをみていると、犬息子は急にいなくなった母兼姉の最期にくるまっていた毛布の匂いを必死で嗅いでいる。
顔をすりつけて、涙をぬぐっているようにもみえる。
犬娘も末娘でおお転婆なくせに、犬息子と同様黙ってなにか思いにふけっている。

人も、それと暮らすわんこも、群れの動物ゆえ、パートナーについては、結構センシティブであることが、こういう姿でもよくわかる。
人も彼らも、日々の推移で、こういう欠落にも慣れていくのだろう。

ところで、盲導犬や介護犬がリタイアしたあとに、専門の老後施設に引き取られたのちに、幼少の頃に育てられたパピーウォーカーが訪れると、ちゃんとわかって旧交を温める風景をみせるという。

彼らも、人間のような主知主義ではないが、ちゃんと「わかって」いるのだ。
かえって、人間がボケるケースに比して、最期までしっかりわかっているのではないかと思ったりする。

たった六つでいった仔に

花を飾って、涙して。
手のひらのうえからのいままでの思い出を、たくさんたくさん繰り返し。
残された小さな仔らと、喪に服し。

自分の定めは、どうなとなれと割り切れても。
愛する仔への哀しみは、おしてはかえす波のよう。
朝のうちはまだまだ走ってゴミ捨てにも行けたのに。

おなかを切った飼い主と、石女手術の仔のおなか、ともに上手に力めない。
便秘気味で頑張る姿をみながら、いつも心でわびていた。
愛玩動物なんて名がつけど、飼うこと自体が罪のごと。

ドッグイヤーを翻訳すれば、まだまだアラフォー、もう少し生きてほしかった。
生老病死は、いきとしいけるものの定めとはいえ。
もう少し、一緒にいたかった。

金魚を飼おうと通販で一昨日きた水槽を片つけた。
命あるものをめでる余裕が消え去った。
当分喪の日々が続く。

短い命のパートナーに教えられることどもは無尽蔵だ。
当面、手短にリカバーなんぞせず、ゆっくり弔おう。
ありがとう、わが愛嬢よ。


2016年9月12日月曜日

まあぼちぼちでんなあ

今日の懸案が、予定どおりスムースに終わった。

途中経過では、工事中に閉めておくべき引き戸が動かなくて、急ごしらえでカーテンで遮蔽したり、まあ簡単には思い通りにはいかなかった。

こういうことも、ぼちぼちじっくりとやった方がいい。

もうかってまっか?
いやあ、ぼちぼちでんなあ。
浪速あきんどの常套句だが、何か大事な作業をこなすときも、できたらぼちぼちの方がいい。

金魚の水槽も、予定通りやってきたが、今日は金魚はいない。
あわてて調達に回ってもいいが、ゆっくりカルキ抜きしたり、機器の作動もじっくりみた方がいいだろう。

まあ、次の手順のこともあるが、緊張してこなした作業の達成感をしっかり味わうにも、ぼちぼちはいい。
食事も、さっさとすませた方が美味しいこともあれば、のらりくらり味わって楽しいこともある。

わんこらも、工事のおじさんの闖入にびっくり興奮していたが、一区切りついたら、再びのんびりモードを味わっている。
動物もこういう緩急には敏い。

クライアントにも今日の工事の結果を伝え、次の要領を知らせる準備もできた。

このところ手堅くボチボチやっていく楽しみも覚えた。

齢とっていろいろと場数を踏むのも楽しいものだ。



朝が来たのね~♪

未明のゴミ出し、気温は肌寒い。
夏場気分でいると風邪をひきかねない。

そんな季節の変化に合わせて、ヌーディスト風の暮らし向きを改めて、部屋着もしっかり身に着ける。
しかし、陽が差しはじめると、再び涼しい格好にシフトする。

北国の一日は、微妙な日内変化への適応が大事なテーマである。
さらに家の養生が絡んでくると、ストーブを焚きながら、涼しい目の着衣や食生活でしのいだりという風にもなる。

今日のスケジュールは、通信機器の整備にスタッフ来訪が予定されているので、スムースにいくように下ごしらえを画策する必要がある。
他人様の業務遂行に依存するからは、うまく動いてもらわねばならない。

これがまたむつかしい。
ヘタな考え休みに似たりで、深読みはさかへこ効果になりかねない。
よいしょばかりでは、なめられて、詐欺のもとになりかねない。
キンキンケンケンが強すぎると、手抜き作業になりかねない。
主観主義的な忖度だけでなく、サービスを受ける方の総合的能力を発揮しなければならない。

わんこも別室に隔離し、お目障りになりそうな物品を速攻でしまい、テクニカルサービスを受けて、検品してしっかりと〆なければならない。

そういうことで、ちょいとテンパった一日になりそうだが、後々に影響の大きいミッションなので、ミッションインポシブルでもベストエフォートでこなさなければならない。

2016年9月11日日曜日

祭りの後

予約していた図書の収受に向かうが、すでに秋祭りの幟は、法被を着たスタッフが回収中だった。

朝に赴いたスーパーにも祭りのお囃子が流れていたが、録音によるもので、実際にねり歩く姿は見ていない。
広い範囲でスタンバイ中の山車を見かけたが、終わったらしき時点では実際に盛況であった感じはしない。

スーパーでの買い物はスムースにできたが、買った商品の袋詰めをしていると、見知らぬおばさんがレシートをくれとねだる。
プライバシーも備忘の必要も気になったので断ったが、何か更生団体のボランティアっぽいレシート集めらしいが、説明も何もなく、不穏当とムッとする。
よい目的のためと躊躇ない態度だが、こういうアクセスが、悪質商法や詐欺にかかってしまう安易な呼応心理を生みかねないところがうまくないと感じる。

ところで、このところ、少し買い物上手と料理上手になったのは、ささやかに自己満足を生んでくれているが、どうしても作り置きや手数が増えて、肥満のリスクなどを考えるとまずい部分も出てくる。
どんな変化も、いいことばかりも、わるいことばかりも生まない。

さて、明日は明日で、ちょいとああでもない、こうでもないと思いをめぐらせたり、あれとこれをダブルでこなすべきスケジュールが待っている。

それを終えたら、楽しみたいと思っている飴も待ってはいるものの、慌てるとうまくいかぬかもしれない。

まあ、ひとつひとつとりこぼさないように進めていこう。

秋祭り~♪

近所のおじさんが、トラックの上に組んだ山車の整備をしている。
まだ小雨気味だったので、「晴れればいいですね」と声をかけた。

いま日差しがしっかりしてきて、これから晴れ模様に向かいそうだ。
ただ、日曜日といっても、頑張っているのは、もっぱら大人である。
子供は、塾だ、クラブだ、なんだかんだと忙しい子が多い時代。
かくして、地域のお祭りも絶滅危惧種である。

わんこらのお庭でわっしょいにお付き合いするのに忙しい身で、夏祭りにも秋祭りにも関与する余裕はないが、晴れてくれるとうれしい。
軽く外回りもしたいし、雨が続くとせっかくの日曜がだいなしだ。

タイミングが合えば、お祭りのねりあるきに遭遇するかもしれない。
秋の風物詩もどんどんと推移する。

この次は観楓会か。
桜もいいが、目にくっきりの秋の紅葉も大好きだ。

カラスの勝手でしょ~♪

自分のよかれと思う気持ちが、通用しないというのは、子供のころに覚える。
大人にしかられる、意見が唾棄される、日々体験する。

だから、そういう体験で十分学習したはずなのに、かなしいかな人は自意識から自由になれない。
もちろん、自分が自分の味方をしてやらねば生きてはいけない。

しかし、カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ~♪という摂理を理解しないと道を誤る。
以下、わがささやかな体験知見である。

わがクライアントは、ちょいと変わっている。
わたしが変わっていることの因果ではあるが、理由は以下のとおりである。

ちょうど仕事はじめが、インターネットなど遠隔通信の創莽期にシンクロしていた。
地場の仕事のほかに、顧問先などは遠隔地も少なくなかった。
このサイトが、わが気付きの対象である。

よかれと思って、濃いコンタクトを取ろうとすると、お叱りというか、不要という反応を得ることがある。
要は、コンサルタントは遠くで、あまり密でなく、濃くない、ほどよい関与が欲しい。
そんな方々が、クライアントの相当部分を占めていた。

こういうケースは、つかず離れず、あまり濃く頻繁なアクセスなどせず、淡々と推移することが喜ばれる。
勘違いして、変な忖度を優先して、入り込み過ぎると、かえって顰蹙をかいかねない。

実は、こういうことは、地場のクライアントも同じ。
構って欲しいところでは、押してほしいが、関わってもらいたくないポイントでは引いておいてほしい。
そういう本音が多い。

もちろん、いうべきこと、関わるべきところで、腰を引いたり、放置すると事故が起こる。
だから、要所要所の突っ込みは必須である。

問題は、カラスの勝手をしっかり把握することである。
そのためには、押し引きで、本音をディテクトする必要はある。

やっと、このところ、この要諦を知るところに達した。
日暮れて道遠しだが、気付きに遅すぎはないだろう。

2016年9月10日土曜日

土曜の午後は~♪

買い物から帰れば、あとは特にどうしなければという予定はない。

外は、小雨が降ったりやんだりの頼りないお天気だ。

不快指数は特に高いわけではないが、雨が降り始める程度の湿度ではある。

特売で買ってきたフルーツをゆっくり煮しめて、ジャムやシャーベットの元っぽい調理を楽しんでいる。
料理は総合学習で、教えられるところが大きい。
最後は仕上がりの勝負だから嘘は効かない。

BGMのyoutubeでは、生で聴きそびれたテレフォン人生相談のフレッシュアーカイブで三石女史のおばあちゃん孫の登校拒否なんとかしたい相談の応答に拍手し、次に黒澤監督の故事来歴をアプリシエイトし続けている。
ご本人の独白や対談などもいいが、淀川さんのスケッチも黒澤御大の裸のありさまを伝えてくださって聴きごたえ大だ。

土曜も日曜もない、毎日が自由な不自由業者だが、嫌いではない。
クライアントだけでなく、つながった際のどなたかへの相互コミュニケーションや対応へのアクティビティは、シャドウボクシングで、いつもベストエフォートだ。

かかってこんかい~♪と戦闘的になる理由は何もなく、ひたすらこうした嬉しいスタンバイ環境を味あわせていただいている。

嘘の効用

人間に限らず、生き物は嘘をつく。
擬態で獲物を引き付けて、異性を惹きつけて、よりうまくサバイブする道を選ぶ。
人間もその例に漏れないが、だから嘘つきで問題なしともならない。

わが人生ここまで経験してきたことを踏まえていうと、医療では、医療者も患者家族も、結構平然と嘘をつく。
法律実務でもそうだ。
極言すれば、みんな嘘のつきあい騙し合いと云っていいかもしれない。

それでも、ヘーゲルの云うとおり、存在するものはそれなりに合理的ではある。
明治の著名な法学者は次のように嘘の効用を論じている。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000922/files/45642_28592.html
末弘厳太郎「嘘の効用」

凡人の私も、自分の嘘、他人様の嘘でずいぶん苦労してきた。
なんとか首の皮一枚で、妄想を振りまくフーリガン元クライアントの魔手から逃れたこともある。
いまや医師や弁護士が、ペイシャント、クライアントから刺殺されたりする時代である。
まだ、ましな方である。

最近、野党の党首選で、候補者の二重国籍問題が話題になっている。
この方へのご意見は人さまざまだ。

多重国籍は世界のトレンドだから問題なしと擁護する向きもあれば、国会議員として欠格だと指弾する人々もいる。
批判する人々の多くも、単に二重国籍自体を非難するするわけでなく、もっぱら当事者の説明の変遷やご都合主義を国会議員に値しないと論じるものがほとんどだ。

保守系野党も、多重国籍者を国会議員の欠格事由とする法案を提出予定と聞くが、確かに国の枢要な業務にあたる特別公務員が、他国の第五列に並んだり、間接侵略と評される行為に及んでも何の抑制も効かないとなれば、どこの国でもそういうことを許すわけはなく、やはり政治家のアカウンタビリティという点から、黒白をつけないと、きっと嘘の効用どころか、嘘の致命傷に沈没することは必定というべきであろう。

馬齢を重ねてくれば、嘘も脛の傷も無数にあれば、バージンライクに私は嘘は言ったことありませんなんて嘘を重ねる必要はないものの、嘘の扱いで、馬齢を重ねてきただけで、鹿齢と併せては重ねてはいませんよと示す必要はありそうだ。

温故知新

プリンターやコピーのスムースに動かないことへの対策に、いろいろと独り作戦会議を展開する。

やはり、自分のライフスタイル、手順を考慮すれば、SDカードから直截プリントアウトできるマシンがあれば、問題の9割以上は解決できる。

ネット検索すれば、メジャーではないが、いくつか浮上した。
適価なものもある。
しかし、またマシンが増えるのも困りものだ。
スマホやタブレットほどハンディーなものでもない。

ああでもない、こうでもないと思案して、現有プリンター機のドライバーをパソコンにインストールする作業を進めた。
こうしてもうまくいかずに、少量を急いでプリントアウトしなければいけない状況になったら、またコンビニコピーを利用すれば支障はない。
原本の取り忘れさえ注意すれば、コスト的にもリーゾナブルである。

そんなこんなの調整作業をしている際に、BGMにしているyoutubeで黒澤明監督の青年たちとの掛け合いや大島渚監督との対談に遭遇した。
巨匠の故事来歴、ポリシーを堪能する。
やはり、その世界で傑出した人物の自己言及は、たいしたものである。

ここで痛感したのは、温故知新の重要さである。
吉田兼好のいう「先達はあらまほし」の言葉どおり、凡人が独りよがりで思い込むと、常識や基本知識を欠いてあやうい。
人生の終わりかけに、そのことを強く思うに至る。

そのためには、傾聴機会の確保とその慎重な吟味の質と量の強化が重要である。
ただただ感化されてマンセー状態になっても、疑問や唾棄ばかりで実質拒否反応になってもうまくない。
明らかにこれは間違っているな、おかしいな、話にならんなというレベルは、カットオフする必要もあるが、そればかりに流れてもレベルが低くなる。
この辺りの調整能力が上品な仕上げの要諦である。

もちろん、それには、自己の研鑽が、ひとさまのことを論うよりも、さらに重要である。
ものを知る、正しく身に着けるというのは、容易なことではない。

2016年9月9日金曜日

マルチメディアというほどでなく

このところ色々な不具合の整復や改良に奮闘している。

昨日のプリンターの不具合で、コンビニのコピーを利用する仕儀となったことから、今日は休眠中のコピー機を引っ張り出した。
最近はカラーコピーが当たり前の時代で、このようなモノクロ中堅機はもうピークは過ぎている。
新品のトナーも一個残っており、使うことができれば、使ってみようか程度の趣旨だ。

結論からいうとハングアップとなった。
その理由もチンケだ。
コンセントにつなぐコードが見当たらない。
わざわざ手間と金をかけてジャンクを探すほどの残存価値はない。
インテリア兼ゴミ残置の元の状態に戻った。

モノやサービス、システムを生かし続けるには、そこそこ使わないとダメだ。
使わないとモノも錆びつき、システムの動きも陳旧化する。
逆に、使いすぎると摩耗して、耐用年数が切れると終わる。
両極端を排して、うまく使い続けないと、よいユーザーになれない。

この辺りは、ユーザーのライフスタイルや世の流れに関係するゆえ、見通す能力涵養の研鑽が必要だ。
子供っぽい「使って減るわけじゃなし」の不良少女っぽい幼稚さもダメだが、年寄りの「長年新品の形のまま維持してきたから値打ちもの」というアナクロもダメだ。
日々のメンテナンスを欠けば、陳旧化、使用不能が駆け足で到来する。

こんなこと今更思い知るのも片腹痛い、恥ずかしい話だが、このところやっと思い知ったところである。
しかし、知るということやリテラシーの向上に遅いということはない。
知った上でのキップの良さが大事だ。
愛読書の「センセイの鞄」で、ヒロインのツキコさんがおばさんだかから聞いた言葉「愛情も手入れが大事。できなきゃ立ち枯れさせるのも一法」。

そのとおりだ。
己の心身の維持や人間関係、世界との関係も、すべからく同じである。

青春時代のまんなかは~♪

もちろん、思春期や青年期は悩む。
漠然とした遠目の悩みだが、進路や就職、結婚その他もろもろ道に迷った気分は十分に味わった。

ところが、更年期を過ぎて、老境に達すると、日々に右往左往するところでは、大きくは迷わない。
先が短いから、迷っても後はうまくオダブツするのがメインテーマだから、青春時代のようなハムレットはまぬがれる。

いまも、通販受け取りが、いつもより少し遅い通知だったので、車でなしで出来る用事を先にもってきて、歩いてポスト投函したり、コンビニ買い物したり、一日の用事の一部をさっさとトリミングした。
これは所詮は要領ツケ、塩梅ツケの話で、道に迷っているばかり~♪と唸る話ではない。

週単位の活動でも、いま金魚を飼いたい買いたいと心が蠢動しているが、予定の入っている通信工事の後の方が落ち着いていいだろうと、我慢が効く。
老い先短いプロセスで、急ぐ順序を間違えるとゴテる。
金魚鉢をひっくり返したり、ひっくり返させたりすると、金魚もわんこも可哀想だ。
工事が気になっているときに余裕なく新規のことを始めると、マーフィーの法則がしっかり働いて、あぶはち取らずにはまる。

コンビニ話に戻れば、ほまち時間を利用したおかげで、顔なじみのベテラン姐さんとも笑顔を交わせた。
うまく回ると、TPOがうまく効いてくれる。

まあ、デューティフリーに近くなって、青春時代よりもずいぶんと自由にああでもない、こうでもないができてハッピーだ。

待つわ~♪

いらち、タンパラ、短気、、、、ローカルにジェネラルに、表現はいろいろできるが、要はこらえ性がない。
特に、自分の状況をビハインドと認識すると弱い。

まあ、われに限ったことでなく、誰でも状況を改善回復しなければならないときに、焦ってイライラするのはよくあることだ。
それはそれで仕様のないことだが、ここでその人間の強さ弱さが出る。

もちろん、サッさと窮状に対応しなければならないときに、極楽とんぼや無関心を続けて、取り返しがつかなくなったり、より事態を悪化させるより、少々イライラしてでも急いで頑張るのは悪いことではない。
ホントウは適度に急いで、ベースでは泰然自若で、危機管理するのが一番穏当である。

このところ、そういう花占いの連続だが、そうへばっていない。
アミンのように、あなたがフラれる日まで、待つわ~♪と嘯く余裕はないが、まずまず波乗り気分で、サーフィンを続けている。

この夜も、ある書類をコピーする必要が生じて、新品のコピー機(両機とも既にコピー成功歴あり)を久しぶりに引っ張り出して、コピーにトライしたが、うまく動かない。
PCとコピー機のマッチングに齟齬が生じているのか、以前の記憶も定かでなく、ギブアップした。
夜が明けてコンビニでコピーして事なきを得たが、このようにベストエフォートでトライした後に、代替手段で目的を達することができれば、結果良ければすべてよしである。

まあ、いまも現在進行形の待つわ~♪の懸案をいくつかお抱え中だが、ひとつが片つけば次が生まれ、昇天するまでこれのロンドで回っていく。
倦まず弛まず、辟易したり、ホッとしたり、自分は山登りやマラソンは嗜まない身であるが、さも似たりを続けていく日々である。

少し峰や踊り場で遠景を眺める感じになれば、気持ちが高揚することもなくはない。

2016年9月8日木曜日

台風崩れ

低気圧に化けた台風崩れで雨降りがしばらく続きそうだ。

針仕事と待ち仕事を済ませて、早寝したら、夜中になる前に目覚める。
建具屋さんに家具の建付けを調整していただくのを待っている間に、youtubeで聴いたラジオ番組のフレッシュアーカイブの話題について書いてみよう。

女性アナウンサーが、小さな揺れでエレベーターが停止しかけてハッとした話だ。
階の途中で止まって閉じ込められることは免れ、直近の階に止まってくれて外に出ることが出来たが、このまま閉じ込められたままになるかと怖かったと漏らしていた。
すると、他の出演者が、このところの一般家屋も核家族で各人が小部屋に過ごしていることが多く、規模が一定以上の地震に襲われると、一瞬で建付けが悪くなり、ドアや窓が開かなくなり、部屋やバス、トイレなどに閉じ込められるリスクが少なくないといわれていることを指摘していた。
特に、このところは、防犯のため、窓などをガラスの割れにくい金網編み込みにしていたり、外から窓を割って侵入しにくい構造にしているところも少なくないが、被災したり、閉じ込められたリすると、今度は内から窓ガラスを叩き割って脱出するなども困難になる。
地震などでは、電話も途絶したり、レスキューに来てもらえにくくなったりで、家の下敷きにならなくとも、大変危険な状態に陥る危険がある。

こういうことは方々にある。

ICT利用でも、ハッキングなどを防ぐためにパスワードの扱いを複雑にするように求められたリする。
それに納得して呼応して、パスワードを忘れたり、自動入力の方法が壊れて、他人様が入れないのはいいが、本人もエントリーできなくなって、大騒ぎすることなどがよくある。

銀行の個人認証もさも似たりで、自分がけがをしたりで、生体情報がゆがみ、預金が降ろせないなんてことも起こる。

様々な領域のサービスが梗塞する。
質の向上やコンプライアンス、倫理の確保が声高に言われて、クライアント予備軍の「結果に拘泥して後でクレームを入れません」といった申し入れやお願いも、「お客様はよくても後にご家族や世間、お上から御叱りを受けるので、出来ません」というあしらいが増えている。

最後は自己判断、自己責任でやらなくちゃどうにもならないというのが、昔でいう弱肉強食や個人主義的偏奇でなく、時代のバックグラウンドに合わせての発想に転じて自分自身で果敢に動かざるを得なくなってきている。



ものの進め方

今日のテレフォン人生相談は、20年前に知人におごってもらった酒代を、その知人を世話をしているという人士から返してやってくれないかと欺罔か恐喝かわからないが迫られている男性の法律相談だ。
回答者の大迫弁護士女史は、男女問題などでは男性に厳しかったりするが、今日のようなシンプルな債権取り立てをよそおった詐欺っぽい事件には、贈与で債務なし、債権特定なし、時効を挙げて、気持ちよくアシストしていた。
こういう人士には、近づくとやばいので、あずかった書類なども書留で郵送すればいい。
万一筋悪事件を引き受ける弁護士などがいたり、あるいは本人訴訟で、訴状でも来たら、上記の否認や抗弁を記載した答弁書を提出すれば、相手が勝てる見込みは乏しいとの、普通の弁護士ならだれでもこういうだろうといったインストラクションだった。

世も無理無体でフーリガンを敢行するこういう連中も増えて、「善良な」小市民は当惑することが少なくない。
敢然と自己防衛を実行する際は、善良な小市民など貫徹できない。
また、そうすべきでもない。
文字通り敢然と自己防衛の立ち居振舞るまいをしなければならない。

ところで、建具屋さんの修理スタッフが、来られる前に、シャツのボタンを縫い付ける。
わんこが小さいころに噛んで、半分になったり、ボタンが取れてしまったものだ。
二着分補修したかったが、一着分のボタンしかなく後に先送り、あとは庭と玄関の掃除でウェイティングタイムを過ごす。

ひとつひとつ緩急や過不足を確かめながら進める。
仕事もプライベートも、天下国家もみな同じ。

少々のバリアーは、クリアーしたときの喜びに転じる。
また愉しからずや。

一期一会

業務でもプライベートでも、世の転変の速さを感じる日々である。

サービス提供者としても、消費者としても、この時代の相は顕著である。

昔は、こういうことが出来た、今はできないということが多い。
システムが次々と改変されるので、商品やサービスが瞬く間に変わってしまう。
技術革新や、やり方の栄枯盛衰も足がはやい。
すぐに「そんな時代もあったね~♪」となる。

加えて、コンプライアンス問題や、責任は重くなりながらコストは割れる、担う個人や組織もいつまでもつやら、あるやらわからない。
政府の倒産統計に出ない、こういったこんな時代の流れに愛想をつかした、特に潰れるといった感じではない形の自主廃業なんぞも少なくない。
近所のシャッター街的風景も、そのような雰囲気で実質的に店を畳んでいるらしいとの話がわんさとある。

質の向上のスローガンの一方で、経営する苦労ですりきれるより、年金や今手じまいして残るサムマネーで余生をしのごうとするのは、ある種の賢明さでもある。
実際に無理してヘタをうてば、倒産どころか、途方もない社会的指弾を受けたりする。

このところいろいろな業者さんに諸々の依頼を試みると、ブラックでない、まともなところほど、能書きが長く分厚というか、インフォームドコンセントをしっかりと形成しようとして、更にこちらに相手にしてはならないと判断される節があれば、上手に敬して遠ざける方針の応対を受けることが多い。
企業も、客の無理を聞いて、小さなトラブルででも炎上させられたり、大きな被害が生じて、経営が続けられない事態が生じたら困るという算段が優先する。

クライアントも、このような時代を意識して、もし望むサービスが提供されなくなったら、どう河岸を変えようか、どう接ぎ穂しようか等々の算段を胸に、サービス依頼を設定する必要がある。
先日も、ある金物屋さんで、ちょっとしたモノの取り付けを打診したら、「ちょいと前まではやってましたが、その作業提供を続けるのに困難な諸般の事情もあって、いまはできないとお断りするモードにしています」と謝絶の言葉をすまなそうな物腰でいただいた。
上流からの物流確保の具合や、同業との競争激化、アフターサービスの大変さ等々を考慮して、自主的にその扱いをしない方針転換をしたようだ。

情報社会がすすみ、管理社会がより強化され、うまくいけば「何でもできますよ」といきそうな面も進む一方で、災害やアクシデントでハングアップするようなところまでいかなくとも、このようになかなか消費者が望むサービス提供にアクセスしにくい側面も大きくなっている。

そう考えれば、そのときそのとき何とかしつらえた解決策も、一期一会であることをしっかり踏まえる必要がある。
また状況が変われば、リシャッフルして、河岸を変えたり、発想を変えたりして、なんとか自分自身をハブとしてマイ企画を再構築する覚悟や準備も必須になる。

一期一会と昔から言われてきた、ものの成り立ちやその後の推移についてのこの諺も、今風にちょいとバックグラウンドやスピードが変わっただけのことかもしれない。
生きていること自体が一期一会であることに思いを馳せれば、生きているだけで大儲け、往けば重荷は即時解除と無常を悟るのがよろしいのだろう。

2016年9月7日水曜日

ポイント、ポイント

暑さも和らぎ、やっと自動車保険の更新を完了した。
更新日を徒過すると大変なことが起こり得るので、気にはしていたが、暑さの日々はスーパーに30分以下の駐車で車内の状況は即席で熱中症に陥りかねない状況だったので、代理店に赴くのも一苦労で、やっと秋日和の今頃になってしまった。

ネット環境の補修にも奔走しているが、ネットワーク環境は自分ひとりでどうにもならない部分があって、日々一進一退を繰り返している。
まあ、こういう作業が、防災訓練もどきになっているので悪くはないと諦念している。
自分の危機管理リテラシーも伸長する機会にもなっているので、大変な無駄や困りごととゴチるだけではなく、一種の研修もどきと甘受している。
ありがたいと思いはしないが、コンチクショーめってばかりではない。

いまの時代、担当者もそのときそのときの一期一会、アドホックに輾転とし、コンピューターに記録が積み重ねられるケースがほとんどなので、意識は個別具体的な担当者に訴えかけるだけでなく、どうアーカイブを作ってもらうかの探索作業になる。
この辺りの鍛錬が、このところの課題でもある。
こういうことは、己ひとりのシミュレーションと、担当者相手の自分の絵図の妥当性の突き合わせが肝になる。

そんなこんなをこなしつつ、まずまずの進展を享受できている。
昔、底抜け脱線ゲームなる番組があって、ジオラマを電車が一回りする間に課題作業にトライし、遅れると要所に置いた風船が破裂する、その風船を破裂させないで課題を完遂できるかどうかをスリリングに視聴者が鑑賞するのが流行った。

最近の日々をこのようなゲームに模して奮闘している。
観ている段にはスリリングで楽しくもあったが、自分でやる方に回ると、そう面白いものでもないが、、、、。

業務さまざま

人の利用可能時間は一日24時間。
大統領や首相から企業トップから、われわれ民草まで皆同じ。

わが人生を思い返しても、若い頃は何だかんだと必死に忙しがってその日暮らしだった。
いま人生のトヮイライトで、特に追いまくられる所作はずいぶんと減ったものの、日々ベストエフォートで腐心する課題は大きく変わったわけではない。

人生の基本は、健康8割、サムマネー2割。
これは老若男女、上下左右で変わらず。
もちろん、諸行無常で、日々具体的問題は転変する。

安全率をそれなりに見込めば、また目配りを十分に行えば、そうギリギリの苦境ということは頻繁には起こらない。
いまもネットワーク機器のメンテに奔走したり、具体的に動く手段の車のメンテを考えたり、はたまたひとときの趣味の拡張のための新展開等々に一日を使っているが、まずまず的は射ているように自己満足している。

最後は一期一会、陽明学や朱子学のよきところや隘路の積極的受容、すべからく人生万事塞翁が馬。
このまま、これらを続けるのがよしと、リフレインしている。

2016年9月6日火曜日

近況miscellany

blog再開、ささやかな読者諸氏との再会を機に近況報告に及ぶ。

このところ光の通信支障に翻弄されている。
キャリアにモデムもどきを交換してもらうが、容易に疎通性向上に及ばない。
ベストエフォートといえど、ベストとも言えないピットフォールにはまった状況と推測している。
真摯にコミュニケーションを求めてくださる方に支障が及ばないように腐心を続けている。

考えてみれば被災やアクシデントで、常態と信頼しているインフラが一瞬で梗塞し、自由が拘束される。
今回のトラブルもそういうことを教えてくれた。
だから、業者の免責とは違った意味のベストエフォートの自己点検に励まなければいけないと感じた。

いまのところ進んでいる方向性は間違いないと思っている。

miscellanyという割に単テーマだが、そのうしろにはいろいろあり。
ぼちぼちと広げて開陳していこう。

再会の日

久しくホームページに公開しているblogを実質休止状態にしてしまった。

SNSその他の場で、隠れ家のようなblog発信は続けていたが、やはり自分がスタートしたホームページのblogをサスペンドしてしまうのも片腹痛い気がする。

この領域の談話を志した初心を思い出し、SNSほかにUPするblogとは一味違うコンテンツを披歴しようと再スタートを決意した。

この時代、縦横無尽に思いのままを展開できることなどない。
しかし、韜晦に、あるいは大胆に、己の思うところを開陳すれば、荒れるコメント放置することのないように絞っても、メールその他で相互のコミュニケーションは可能である。

ということで、久しぶりの走りだし、よろしくお願いします。

もちろん、従来どおり身辺雑記を通しての葦の髄からゆえ、その辺りよろしくご了解ください。