2016年9月25日日曜日

傍若無人あるいは天上天下唯我独尊

日曜日だが、特にこなさなければならない用事もなく、のんびりとしたスタートだ。

近所の若旦那も愛車のお世話で小間物屋を広げているので、こちらもちょろちょろ動いて事故でも起こしたらうれしくないので、インナー指向に徹する。

住いの近隣関係と隣国との国際関係は、さも似たりである。
よき隣人は、なかなかおらず、こちらもなり得ない。
他人が近隣に位置するだけで、さまざまな利益相反関係が生じ、接触事故のリスクも増える。

今朝もネットで知己が、原子力廃絶を云いつのっていたが、実はむつかしい。
北の核ミサイルは、わが国のテリトリーに乱発され、抽象的危険から具体的危険に転じつつある。
民生と軍事の核技術は通底し、実務的リテラシーを欠けば、核防御も不可能性が強まる。
北は、ロシア崩壊時に、原子力技術者をごっそりスカウトし、核開発に励んで今がある。
中国も、東シナ海の埋め立て地に原発を作るだの、ミサイル基地を建設するだの、これまた具体的な侵略意図を隠さない。
知己は、経済性を口にするが、飽和レベルのミサイルを撃ち込まれて廃墟になった狭隘な焦土に、経済性もクソもない。
非核指向を鮮明にしている被爆国ゆえ、核武装唱道派のような中途半端な核武装は望ましくないと思っているが、バンカーバスターのような非核兵器を装備強化するにしても、実務リテラシーを維持するために原子力のテイパリングしながらの維持は必要だ。
もんじゅのごとく増殖に失敗しても、核融合等も今後の世界で志向される時代であるから、未来技術の実験的フィールドも、同じ理由で維持の必要はある。

そんなこんなを思っても、ご近所さんにも、知己にも、政治活動サイトにも、働きかけることはせずスルーする。

傍若無人といえば、粗暴でラウドな振る舞いで荒ぶるイメージだが、傍らに人なきが如くにスルーする風の如く去りぬ型の傍若無人もありである。
荒ぶる傍若無人に素知らぬ振りばかりでは、図に乗った御仁に攻め込まれるばかりだが、そこまでのリスクはなしと判断すれば、フェイントをかけるが如くの静かな傍若無人が良手となり得る。

また、釈尊の云った天上天下唯我独尊も、エゴイズムやナルシシズムの謂いに曲解されがちだが、本来は己の頭の上のハエを追え、自分をしっかり深堀りすべしとの尊い教えである。
狭隘なエゴイズムやナルシシズムを排し、他者への傾聴姿勢を維持しての自己沈潜は、自分らしい解答や解決を引き出す鍵である。

言うは易く、行うは難しだが、意識してよいスタンスではある。


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