2016年9月15日木曜日

アンビバレンシー

世話をする仔らが減って、自分の中にあったはずの矛盾した気持ちに気付く。

昔、川崎さんがМCをやっていたバラエティー番組で、夫が家出した奥さんがどうか戻ってほしいと訴えかけたセリフを覚えている。
子供が二人なら両手で抱ける。
でも、三人は両手で抱えられないの。
何とか戻って、一緒に抱えて欲しい。

確かに、キャパを超えた抱擁には無理が出る。
だから、たいていの不倫はトラブルを生み、悲劇で終わる。
めされた仔には申し訳ないが、リードの捌きがずいぶんと楽になってしまった。
哀しいながら、逆にほっとしたようなアンビバレントな気持ちになっている自分を感じる。
解放されたような、それゆえそこに自責の念も重なる不思議な心理だが、当たり前ともいえる心持だ。

大変な苦労が好きという人々もいる。
いまはなきダイエーの創業者は、「好色な人々が多方面へのリビドーに刺激されるように、自分は経営を全面展開したいという本能がわきたつ」のだと語っていた。
経営者は事業展開に、政治家はリーダーシップの発揮に、あくなき意欲と喜びを感じるゆえ、そのための苦労をいとわない。

しかし、凡人のわれらが思いは、せいぜい今感じているような痛しかゆしだ。
金魚を三十年も生かしている老婦人は、毎日のように水槽の掃除に勤しみ、エサやりも金魚の体調に合わせて微調整するのだという。
夜店で得た普通の金魚を人間でいえば100歳を超えるような長寿まで飼い得た秘訣は、旅行にもいかず、一日もかかさず、ひたすら金魚に執事の如くお世話を尽くす生活によるという。
よほど、金魚に愛を備給する魂がなければ、こうはいかない。

いま末仔の頭を撫ぜ、喉をくすぐると、生きている。
いってしまったあの仔は、あの日の朝そうしていつものように反応していたのに、昼過ぎには呼吸もせず、ゆすっても撫ぜても、身体を硬くして横たわるだけの姿になってしまった。
他人事ではない。
飼い主だって、いくら哀しんでいても、いつこの状態になるかもしれない。
せいぜい、残った仔を精一杯世話をして、何とか看取るまでが、自分のミッションだと思い定めているにすぎない。
「星守る犬」の主人公のように、もう捨犬の子犬を家に連れて帰る蛮勇はない。

生きているということは、このようなアンビバレンシーを辛くなるほど味わって、それでも戦闘的哲学者のようにもう一丁来い、永劫回帰だと云い放つことのように思える。
なんにせよ、いけるところまでいって、最期はさようならと去っていく、そんな姿を示していく勇気をなくした仔に教えられているところだ。

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