2016年9月24日土曜日

バリア考

養老大先生は、バリアフリー警戒論者である。
わが見解もそれに近い。

バリアフリーは必ずしも安全ではない。
いつも単調にこちらの都合に合わせてくれる造りに慣れていると、ちょっとしたイレギュラーで失調する、滑るなどのミスが出て、転倒や転落を生じる。

不自由な人にユニバーサルデザインでバリアを破砕しようという発想は、もちろん大事ではあるが、逆に人為的バリアで、バリアフリーの陥穽に対応できる能力を維持発展させることも重要である。
その兼ね合いが大切だが、実際は極論の罵り合いで膠着するだけのことが少なくない。

ちょいとニュアンスは違うが、わがyoutube利用なども、苦労を大切にしている。
いまは安い見放題サービスがあるので、月数百円で自由自在に観たい映画やドラマを視聴できる。
しかし、それを採らない。
見放題となれば、好き放題に流れる。
放恣で自堕落なウエイ・オブ・ライフに陥る。
youtubeで、観たいアーカイブを探して、みつけた喜びと共に鑑賞する。
著作権の問題なしに保存できるオープンリソースならば、バックアップしてオフラインでも愉しめるように工夫する。
そういう拘束があることで、貴重な時間や機会を利用するマインドが維持される。

さらに飛躍した論を進めると、政治論なども同じように感じる。
わが国の特異性から、不自由は多々ある。
右派は、国辱親和的だと悲憤慷慨し、左派は、逆の発想で不自由度をエンハンスしようとする。
しかし、右派的偏りで、政府の弱腰を提灯行列までして論難し闇雲なショービニズムに突入した歴史もあれば、左派的反国家主義で国益が大いに阻害された歴史もある。
わが国は左右へのぶれ、恭順と反発が極端な国民性を帯有している。
それはジグザグの内戦的角逐で島国を維持してきた歴史性に根をもっており、それなりの合理性もなくはないが、長所兼短所である。
真のリアリズムは、養老師のいうように、起こることも大事だが、起こらぬことの大事さの自覚であるとか、できることできぬことの切り分けの上での諦観を持ちながらベストエフォートを黙々と、あるいは現実を示唆しながらの努力に反映される。

どの領域でも、バリアとバリアフリーのあわいをハンドリングして、現状維持や現状変更していくことが大切ではある。

うちのわんこらにも、自由にさせるタイミングと、自制させないと危ないタイミングの教育を意識して、手綱捌きに腐心している。

自分を自由にする、あるいは不自由さの負荷をかける。
最もむつかしく、大切なセルフケアである。

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