2016年9月19日月曜日

真っ白な陶磁器を~♪

まったりと詩的な一日を過ごすのがあらまほしと思えども、実際は貧乏性な、ああでもないこうでもないの一日を過ごしてしまう。
小椋佳の歌のようにはいかない。

今日も軍事や政治、科学、その他あまりまったりとしないテーマを考えながら、ネット検索等に励んだ。
先行世代に対しては、そこまで生きれば、右も左も上も下もどうでもいいではないかと他人様には内心でそんな心証を吐露しながら、己もさもにたりの夕暮れを過ごしている。

午後はしっかりと晴れて、さきほどもしっかりとわんこを遊ばせてやれた。
まずまず快い三連休であった。
明日は世も連休よりは動きに富んで、わがアクティビティもささやかに向上するか。

今年は庭の紫陽花もささやかに花開いたが、野ばらはただジャックと豆の木のように上に伸びただけだった。
草花にも眼がいくが、芽が出て、花開き、散っていくことには、自然の感興がわくだけだが、動物に対してはどうしても生死を気にする思いが強くなる。
情緒というのは、理屈ではなく、ほんとうは情緒に理屈がついていくのだと思う。

存在するというか、そのままの、、、実存、現象がまずある。
鏡像は、左右逆になるが、上下はならない。
レンズの学問は、われわれが見ているのは倒像だと教えるが、実感の上下左右は、こうして生きている己の感じる上下左右だ。
天が落ちてくるかもとか、隕石で命運が尽きるやもという不安症があったり、電波系とかつて揶揄された妄想症候はあっても、世界の倒像がおかしいとか、左右鏡像が云々といった精神症状は寡聞にして知らない。
こういう悟性というか、感性はきっと人間も動物としてしっかりビルトインされているのだろう。

もう残り少ない人生、ただただ斯くの如きよしなし草を、兼好法師のように書きつける暇も精力もなく、情報社会や転変の激しい高エネルギー代謝の末法の世をひたすら味わって過ぎていく。
その辺りが、最適解かどうか知らねど、わが流儀と思い定める。



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