2016年9月29日木曜日

頭は生きているうちに使うべしか

ここしばらく不思議に思っていた、庭の盛り土の上にできた一直線。
なぜに曲線ばかりで出来たエリアに、定規で引いたようなまっすぐの跡ができている。

そのわけが二、三日前にわかった。
ひさしから落ちる雫である。
雨模様の夜に、あるいは露がしたたる早朝に、その軌跡ができる。
気がついてみれば、なんてことのない物理現象である。

世の中、一見は不可思議で、理解しがたい現象は山ほどある。
足りないのは、こちらの知恵である。
そして、知的誠実さに目配りして、一生懸命考え、調べ、しっかり揉んで、安直な結論を留保して、問題を転がしているうちに、それなりの実態、実相が浮かび上がってくる。
もちろん、そのような果実であっても所詮は己ひとりの仮説であり、シンプルスペキュレーションに釉を塗った程度のもので、なにか大がかりな、あるいはしょぼい、情報化時代というイリュージョンに幻惑されているだけのことかもしれない。

そんな中で、いまも某化粧品会社がスポンサーの右派ボードのライブ放送をウォッチング中である。
理屈はどうあれ、生の事実、情報、流れを知ることができる。
外国の戦時下情報の様相に近付きつつある、わが国の嵐の前、あるいは嵐のさなかの様相も、ネットで刻々と知ることができる。
これらの言説や情報にはデフォルメもあり、評価も気をつけないとミスリーディングされる危険はあるが、虎穴に入らずんば虎児を得ず、それに加えて、こんな云い方をすると語弊の怖れはあるが、ライブのエキサイティング感も出てくる。

さて、今日の陽光もちょうどよい感じである。
ここまで愚鈍できたこの頭と心身で、どこまで行けるか。
やってみないとわからない。
量子力学や相対論的認識に乗れば、そうだろう。
わが粗末な頭を使って、そういう感じの暫定結論にしている。

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