2015年9月10日木曜日

だって当たり前じゃない~♪

はやい夕食をとるとササッと眠くなる。
聴こえるか聴こえないかでBGMを流すと、脳も末梢も落ち着くのかスッと寝落ちする。
コッコがベッドにしている安楽椅子に上がってきて、就眠儀式をせがむ。
乳児の母親の如く、窮屈と平安のないまぜでまあ心身のチューンナップはできている。

そして自然に覚醒した後は、もっぱらスマホやtabletを数台とっかえひっかえ、alcoholなしのお茶で水分補給しながら、小原庄助的三昧の世界に入る。

ペットの性格がその子その子によって違うように、各machineの性格も区々。
ソフト、アプリの委細も動かしてみると、きっちり同じでない。
通信速度もクラウドの動きも、SNSの動態も、同じものはおなじはずなのに、実際に動いてみると、動かしてみると随分と違う。
先ほどもネット知己のブログをrssリーダーに登録しようとして、登録関連場面にいってみると、ずいぶんと読み漏れがあることに気付いた。
このようにおなじはずが同じでない世界なので、油断ならない。
趣味娯楽ならよいが、仕事や真剣勝負でものを考えようなどというときには、信用ならない。
したがって、素直な自己謙抑というより、疑心暗鬼によるクエスチョンマークで割り引いておかないと大きな判断ミスをしそうだ。

そんなことを思いながら、いつものネット回游をやってみると、どうも見切り千両、岡目八目、メタ見識が要るなと痛感。

まず己のことは棚に上げる。
後でまとめて棚卸しする。

なんでそれほど悪くもない、いや美徳も秀逸さも感じるのに、ここはこうなんだろう。
思いつくままに列挙してみる。

ネットそのものが便利なのに、明らかな間違い、流言蜚語、極端なフレイミングなんぞが奔流になってしまうのだろう。
膨大な情報量が津波の如く押し寄せる、またLINEのようにお互いに狭い世界に押し込め合うのに好適なツールが提供されるようになれば、かくなることと容易にわかれど、そういうものの全くない時代を大半に生きてきた化石人間には、やはりなぜという嘆きのような発問がついてまわる。

SNSなどでは、「いいね」中心でほんわか共同幻想共同体、日頃のstressうっぷんをヨタ会話で晴らしているところに真面目な闖入など行えばフレイミングが起こるのは当たり前かとも思う。

その他 、人がどうしてそのように考えるか、感じるか、行動するかは、DNAだ、生育歴、故事来歴その他諸々がこうだからとプロファイリングしても、所詮最後はトートロジー。
プロファイリング専門家が犯行パターンを解析するように、そこはそうなんだわーというところ以上に行かない。

実務修習のとき、金魚のフンをさせていただいたエリート裁判官に、「何々君はこう言うのですが、ボクはこう思う」と話したときに、「なに言ってんでずか、だからこの商売があるんでしょうが」と叱られた。
男と女のあいだでなくたって、深くて長い川はある。
えんやこらなんとかしようとしてならねば、上下左右、体制反体制、多数派少数派、改革派守旧派、性質決定のできないトラブルまで扱うのがこの仕事だ。
そこそこ年食って卵になってもまだわからんか!の教えであったわけである。

養老師のご指摘どおり、人は自分にひいきする。
だから、自殺者よりも日々生きようとする人の方が多い。
上述のようにトラブルでバッシングされるのが自分であれば、自分で自分にそこそこのハンデを与えてやらないと、ラウンドする気力も萎えてしまう。

そういうことで、先ほどはひとまず棚に上げて棚下しすると言ったが、とことん棚から下ろすと生きていく勇気がめげそうだから、そこそこ自分にハンデを上げて自己言及する。

相互異見性は、人間の相対性原理のようなもので当たり前。
逆に、無理やり一色に塗ろうとするのは、全体主義で危ない。
ネットの誤謬やカルトセクト誘起性は、副作用、特性として承知する。
フレイミングは敬して遠ざけるが、高須clinicの院長の如くそれが余生の肝と覚悟すれば面白いことはわかる。

まあ、ノイズやバカな手合いの妄動を引き起こすより、スパムは無視が最上の対応策といわれるように摩擦係数、リスクの小さい対応が賢いといえば賢い。
それでも、以前からフレイミングまではいかなくとも不毛な応酬を繰り返してきたかのネット知己と、まずまず相手のプロファイリングを踏まえてまずまずの交流ができることもあり、要は自分や相手に合わせたカスタマイゼーションの問題だろう。

徒然草に、打てば響く共感性の高い友のあらまほしさが書かれてあるが、容易でない。
経済的利害対立やイデオロギー対立をまぬがれても、人の嗜好性というのも難物である。
お追従を装いあっても、腹の底では黒い憎悪が渦巻いているということも少なくない。
結婚が、親子が、兄弟が、その他近場がこれで、少子化という面も小さくないように思う。

うまくいけば疎通性よく、距離取りもできて、ホンネも通じ合える関係は可能であろう。
吉田兼行も難しいながら希求するというのは昔から美徳のモデルとしてあったということだ。
わが胸襟開く朋輩は、少数の人々と、種を超えてワンワン連中だが、先般も書いたとおり、ちょいと気を許すと引き摺り倒される愛情で結ばれている。
万物の霊長が取り仕切る環境で生きているゆえ、責任を取るのはわれのみ。
その責任も難しい時代。
質の向上のスローガンのもと、諸々の劣化が激しいこの頃。
「責任」の取り方もむつかしい。
国際情勢、経済情勢、諸組織の動態、状況倫理、その他みても責任論もまとまらず、責任をとるという定義、語義すらさすらう時代。
責任を、責められる任務と読めば、わんこに引き倒されるのがわが責任、脳挫傷で飼い主が死んだら屠殺されるか、脱走して車にひかれるか、家で餓死するかが、この子らの責任。

まあ、わが当たり前がこの辺りだから、自称六無斉もどきがちょうどいいかもしれない。

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