2015年8月20日木曜日

晴耕雨讀

別に農本主義の時代でもなく、素朴に天候に合わせるという意味ではない。

いとまなく従事すべきことあれば、上手にアレンジしてこなす。
少しいま腐心すべきことから解放され、余裕の時間が持てれば、ちょいとレンジの広いやりくり画策に遊ぶ。

たぶん昔の人たちもそうだったんだろう。

もう少し着想を広げると、人間関係や自分の身の処し方にもいえそうである。
いま現在こういう位置付けでいいかなと動いていることどもが、動いているうちに、いろいろプロファイリングもでき、相手の自分の性格都合運命も出て、まさかという坂も経験して、縁のあるものならば進み、結局あわないものならばささやかな歴史となる。
この辺りも、晴耕雨讀的な遠近法が必要に思う。

いずれにせよ晴耕雨讀は、精勤の薦めである。
少し余裕のある時代なら、くわえてベイカンスがあらまほし。
しっかりと一時前提を棚にあげ、ひたすら空虚に虚脱しポケーっとする。
いまの時代、ある意味で結構豊かな時代になっているのだが、これがむつかしい。
情報量や接触機会が多くて、虚心になかなかなれない。
なろうとすれば、やはり座禅のパシーッといった精勤なassistが必要で、わがimageするベイカンスとは似て非なるものとなる。

時代に生きるのは、このようになかなかむつかしい。

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