2015年8月27日木曜日

ユビキタス

便利なようで不便、不便なようで便利。

ラインが拘束衣になって死に至るような悲喜劇もしばしば耳にする。
あくまで道具、手段なんだが、転倒倒錯しているような違和感を感じることも少なくない。
例えば、歩きながらスマホ携帯。
危ないし、そういうリスクおかしてまで見続ける必要があるのだろうか?
単にマシン、システムの使い方が下手で、非効率なライフスタイルに淫しているだけではないのだろうか?

ユビキタスを志向して、さまざまなツールを身につけ常に情報のながら族の先端を行っている知己にメールを送ったりするときも、やはりTPOを気にする。
飯食ってるときも、寝ているときも、そうではないだろう。
したがって、そういうことを忖度した往来に自己規制、配慮し、ハーモナイゼーションを図る。

こういうことを繰り返す中でプロファイリングもできていく。
この人はこういうところはこうで、ああいうところはああだ(ろう)。
もちろん、その質感から、相手の対応から、相手の反応を鏡像として、自分のプロファイリングもできてくる。
有り体にいうと、あのような方がこうだから、自分はこうなんだろうなという風に。
あわてた解釈は誤解のもとゆえ、こういうことも熟成度、感度、その他の考慮は大事である。
まあ、誤解も理解のうちとなれば、そういうことも含めて占えばいいだけで、占い師で商売に関わるでもなし、通底する価値観、判断基準は、もののあわれ。
しっかりプロファイリングしていても、互いに呆けることもあれば、君子豹変、天変地異もありえる。
いつもの、まさかという坂、マーフィーの法則だ。

ということで、わがユビキタスは、こういう環境論のようだ。
養老師の説くように、自分は宇宙服のスペースのごとき環境にある。
その環境は、ブラックホールにまでつながり、日常の感覚からは想像もつかないレベルで、階層で、閉じたり開いたり動いたりとどまったりして、いまがある。
先ほど目にしたホーキンス博士の講演発表では、ブラックホールを突き抜けた向こうには別の世界がありそうだとか。
博士なんぞは四六時中そのようなことを考えておられるのだろう。

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