2015年8月9日日曜日

アンチノミー

師匠の振りでカントの「純粋理性批判」とアダムスミスの「道徳感情論」について考えてみた。

結論的に云うと、カントは人間が理性的に世界を把握することについて、アダムスミスは人間が感情の面からいかに世界を紡いでいくかについて突き詰めている。

カントがドイツ語で本論文を上梓する以前は、この手の学術論文はラテン語で書かれていた。
「われおもうゆえにわれあり。コギトエルゴスム。cogito ergo sum」には、ラテン語では主語はない。
カントは、初めてドイツ語で突き詰めたゆえ、デカルトのように主語なしではない、一歩も、何千歩も進めたという心意気がみとめられる。
また、パスカルも「弱い葦だが考える葦だ」と喝破したが、カントは「アンチノミー(二律背反)」を執拗に検討することで弱さを超克せんかのごとくである。

そもそも、カントに限らず、人間は言葉で考えるという利益と不利益を持つ。
しかも、それは環境を超えてという意味ではない。
時代環境に強く制肘される。
カントが制肘されたのは、ラテン語と異なり主語をしっかりたてるルネッサンス後の近代自我主義と、インターネットなどを未だ知らぬ牧歌的な文明状況である。

カントは、古典的な論理学を駆使し、二律背反をめぐる教理問答を難解なカント語を積み重ねながら結局この世界は矛盾そのものであることから逃れられないことを示した。

矛盾を駆動力に歴史が進み、色即是空と同時に空即是色と釈迦が喝破した世界のありようを踏まえれば、カントの苦闘は、ルネッサンスを生んだ西欧近代の独り相撲にも見えなくはない。

直截に云えば、いまやITがわれらのインフラを支え、その進展はとどまるところ知らぬがごとくである。
情報は個人の処理能力を越え、これに適応するに人々は確固かつ唯一無二の人格というよりは、多重で流動的な演技的人格で過ごして行こうとしているかに見える。
科学も量子力学や複雑系といった考え方で、確率論的判断が当然となっている。
生きていると死んでいるが半々などと云えば、昔は病気とされたが、いまは常識となり、言語も語り得るところが語り得るのだという分析哲学的自己抑制が常識になっている。
こうなれば、現代人は、現象学や構造主義を、手品で自己欺瞞に陥らぬように護持して、どちらでもあり、半々だろうと花占いを続けて生き往きするほかあるまい。

アダムスミスもさも似たり。
感情論を扱って、カントと一年違いで生まれ、似た時期に著述したところに注目すれば、人間的自然が近代に於いてどう発露するか、どうプロファイリングすべきかの嚆矢となった来歴も、理性領域に集力したカント的営為の情版として理解できる。
したがって、これもネット、ITの時代に、デフォルトで真善美を語る道徳感情論が可能かというと、容易でないどころか、古きよき時代からすれば支離滅裂であるところで、カントの部分で述べたところとパラレルである。

てなところが、師匠へのreportだが、如何なもんだろう?

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