真善美は太古から文明文化問わずあらまほしとされた徳目。
知情意は真善美を知得する実現する領域方法手段といったところだろうか?
しかし、これらは所詮アッパーな人々のお題目で、われらのごとき下々はそういった抽象的で高踏な議論は、普通真剣に本気に首は突っ込まない。
あるのは、この世を身すぎ世すぎする上で、楽か苦か、それも飽き飽きし、あるいは苦吟し、辟易したあげくは、あの世はいかがなものだろうというところになる。
このところわが従事しているところを省察すれば、知識社会学的に、我々人間がどう四苦八苦しつつ、自己像を把握し、自己変容を企図し、環境適応しているかの分析とみている。
養老翁がご指摘のとおり、脳が脳システムが企図したり、適応を図っているところを適切に把握できるかというと自己矛盾のようで心もとないところだが、ソクラテス以来学問が「汝自身を知れ」をスローガンにする以上難渋しつつ模索するしかないだろう。
とりわけ下々を自覚する我とすれば、真の損得、あの世のありよう、真剣に占ってみたいとは思っている。
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