2016年10月25日火曜日

朝の語り

伊集院光氏の深夜放送を聴取後のいまである。
氏の語りのうまさを堪能し、いままではもっぱら直後アーカイブだったが、出来れば生で聴きたいと思う次第だ。

マスメディアの語り部と、極私的語りの位相はもちろん異なる。
このところできる限りの縮みの志向で、自分は声高に語ることはないが、語る以上はその効果、意味論は常に自問自答する。

よほど放埓ない発声者でない限り、ひとつ声をあげるにせよ、反射的行為でない限り、それなりの瞬発的自己省察は試みる。
もうひとつは、逆にそうであるがゆえに、秘するものはとことん秘する。

昨日は、某番組で伊集院光氏と荒俣氏の対話を聞いた。
荒俣氏の結婚話も聞いたが、元相方の江戸語り部の翳はない。
もちろん、破たんした前婚話など無用ではあるものの、楽しく語る現婚話はそれなりに嘘とはなる。
伊集院氏にせよ、荒俣氏にせよ、現婚のあれこれは、相手も現存しフォローも可であるゆえに出来る部分もある。
過去の人には、係累その他いろいろと絡む故、容易に云々はできない。

ところで、己の語りの話に進む。

いろいろと思いを巡らせ、ポリティカリーコレクトネスその他もろもろに配慮して語るにせよ、他人様に語る以上、聞くに及ばずとなれば、聞く方が絶無となればナンセンスとなる。
もちろん、こちらは、エンタテインメントや注目狙いで語っているわけでないから、媚びる必要も、他人様に賛同を求める必要もない。
いずれにせよ、言説の発信者動機と、受信者共鳴や傾聴の非作為的共鳴があらまほし。

そんなおりに、手書きの書き置き綴りを作成した。
他人様に供覧する書き物と、いずれ人の目に触れるかもしれぬが当面秘する書き物のコンテンツは、おのずと異なることにはなる。
量子力学的認識からすれば、思い浮かぶすべては決して書き物には固定できぬ。
最新科学的ツールにしてもが、刻印は不能である。
最後は俺がデータべースで、消えるところはサッサと消えるもんだとなる。

さて、総論、能書きは、とりわけ力む必要はない。
書き手を志向するなら、淡々と描き続けて、己の志向通りの自己実現的果実を産生することだろう。
まとまるところでまとめるが作法である・

ところで、今朝の行動予定は、おおむねの動きをイメージできているが、決め手はない。

結果よければすべてよし。
己のプロデューサー以外に、己の画策するすべなし。

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