言葉そのものの食べ物も余ってる。
規制の時間を一分過ぎても売れません。
レジ機がブーっと拒否る。
即ごみ箱行き。
そんな日常ながめつつ、農水省の食糧自給率うんぬんかんぬん信じているバカも居る。
商売で省益マンセーの良心切り売り学者、評論家もわんさと居る。
こんな時代でも、災害が起これば、一瞬で食い物不如意の時空に飛ぶ。
そういう意味では、飽食の時代もバベルの搭だ。
明日の食い扶持など信じてはならない。
情報のaffluentなのも同様。
Internet環境が遮断され、スマホもただの箱になれば、己のリテラシーで歩むほかない。
若者たちも、じじばばも端末ピコピコと、LINEだなんだとネットワーキングしているはいいが、災害にまで至らなくとも、ひとつ電波状況の悪い地に入れば、あるいはバッテリーがへたれば、どこかしことなく飽食から、強制的断捨離の世界に入る。
昨日も今日も、業務連絡的には、ネットを頻用し、他人様が頻用するのを眺めているが、実際に紙一重。
師匠とその手足として動いているスタッフのやり取りをみていても、これがテーマにしている医療の実際のフィールドなら、ごててる間に2、3人Sterbenしてもおかしくない。
ホンにパラドクスよのうと眺める。
若き「友達」よ。
勉強しろとアジりながら、実務家あがりのヘッポコリサーチャー最末端は、このようにアンビバレントな現実もpresentする叔父さんfunctionがお仕事なのです。
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