2015年11月14日土曜日

命を考える

ペットなんざ人間にくらべれば、、、、という方々には片腹痛いやもしれぬ。

さきほどdマガジンで読んだ佐藤愛子先生のエッセイ。
浦河の別荘に遺棄された犬娘の話。
ロケーション、タイミングからすれば捨て犬以外にありえないこの子を、先生は覚悟決めて拾った。
犬娘は北狐に喰われそうになったところを女史に救われる。
それ以来犬娘は恩人の女史のガードドッグ、守護神の如く振る舞う。
愛子先生は、今泣いておられる。
従前の愛犬にしたごとく、わが食事に似た給餌を続ける。
最後犬娘は、腎不全で逝く。
やった食事があの娘に合わなかったのではないか。

わが愛ペット歴にも、落涙を禁じ得ない想い出は多々。
愛子女史のペットロス記に共感して落涙した。
いまも愛する犬息子犬娘らは、わが傍らに健やかに寝息を立てている。
ボクがこの子たちの命をholdできねば、わがhumanityは糞だ。

人のありように移り、テロを考える。
政治学者でないが、少しかじった見識で手短に書く。

オウムは、タントラバジラヤーナの教義で、確信犯的に殺戮に手を染めた。
置いておいてろくでもない命は奪ってやるにしくはない。

ボルシェビキは、意味ない反革命生命は奪うべきというイデオロギーから、オウムと同じように殺生を大量に行った。
云うことを聞かない反革命分子をラーゲリや精神病院に収容し、膨大な人間の命を奪っただけでなく、路線闘争で追放したトロツキーをアランドロンが映画で演じた刺客をメキシコに送ってまで惨殺した。

ペットたちは、こういう残忍なことはしないが、人間はする。
われわれ日本人もそろそろ本気を出さねばなるまい。
国際的に残虐なテロリズムが暗躍している今、安全保障に国際協調するのは最低限の義務である。
マグロや肉を飽食して、よその苦難は他人事では済む時代ではない。
安倍晋三総理の国連演説は、他国に向けたメッセージであるとともに、われわれの自戒の表明と読まねば、平和ボケと諸国民に評されてもやむない。

ということで、わがmissionは、この子らの命を守り、ささやかにアンチテロリズムの戦線に共感共闘することだろう。

そんなことを思いつつ、松山千春の「はまなす」に耳を傾けると、また涙がにじむ。

歳をとると感情失禁するのは当たり前だ。
なだいなだも、北杜夫もそう云っていたのを思い出す。

0 件のコメント:

コメントを投稿