生きているということ
犬息子や犬娘を抱えていると暖かい。また、柔らかい。鼾や寝息などの生活反応がうれしい。逝った仔も、朝は一緒に駆けてゴミ捨てに行ったのに、昼には冷たくなった。硬くなって、何の反応もしなくなる。いくら泣いても、この過程は不可逆だ。昨日のtelephone人生相談は、心理的瑕疵の告知についての相談だ。父親が20年前に自殺した不動産を売りたいが、自殺の事実を告知しなければいけないかという話である。弁護士の回答どおり、告知しておかないと後で揉める可能性大である。ちゃんと告知して、その分だけ少し安めに価格設定しておけば、買いたいという人も少なくないというのも、実務上回答者の言うとおりである。今日のtelephone人生相談は、依存心の強いくせにfrankにパートナーに対せない女性のとりとめのない相談だったが、MCの加藤諦三氏や回答者の女性弁護士の指摘どおり、そういう場合は、独りで生きていった方がいいのかもしれない。すでに中年に至ってアンビバレンスが身に染み着いた状態になっているのなら、すっぱり相手とのしがらみを手放して、自分と対話しながら生きていくのがよいかもしれない。そんなこんなをtraceしながら、わが生と死を思う。満身創痍というほどでなくとも、歳相応以上にポンコツになって、つぎはぎツギハギじぐざぐジグザグで生きている。どこまで行けるかわからないが、best effortでいかないと、昨日のtelephone人生相談ではないが、後での処理で困る人間が増えるのも気持ちよくない。また、ポンコツになると、今日のご婦人のようにしがらみやアンビバレンシーに悩まなくとも、自分で自由に失敗や粗相を処理できないと窮屈で暮らしにくい。ということで、こつこつポチポチと行けるところまでいくほかない。養老先生のおっしゃるように、一人称の死は自分のことゆえどうこうできないし、三人称の死を従量式悼んでいるとウツどころか身が持たない。二人称の死は辛いものであるが、愛仔を何度か見送っているので、こういう経験はもういいやと思いながら、いま共生している仔らを見送るのがmissionになっているので頑張っている。人間の解剖も経験する仕事から、大昔の解剖図どおり自分達もvariationを別として基本的に同じになりたっていると実感として知っている。仔らの料理を作っていれば、硬くなった仔らも魂が天に昇れば、身体というモノは同じなんだろうなと思う。そんなこんなを思弁したり、感覚したりしながら、一日一日単位で過ごしている。宗教やイデオロギー、職業経験や得手不得手で、人はかなり違った意匠や形相になるが、体内で起こるturn overはそういうことを越えてさも似たりで起こる。だから、わが身にもcaが住み着くが、世界革命など夢見て海外でテロ活動に長年従事した女性活動家にも住み着く。右も左も上も下も基本同じだ。斯くのがとく、生きることも往くことも、死ぬまで不思議のままネオンサインやミラーボールのように煌めくのだろうか?
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