2016年12月1日木曜日

避けること避けること

昨日のテレフォン人生相談は、親ひとり子ひとりの母親からの相談だ。
息子の嫁さんとしっくりいってない自意識を持っている。
私は息子夫婦に気を遣って出来る限り出しゃばらないようにしているが、嫁はすぐに近場の里に帰ったり、どうもイマイチ得心できないという。

回答者の幼児教育研究家は、即ダメ出しした。
あなたが餃子の材料持って、同じ敷地の息子夫婦の住まいに闖入したら、嫁だけでなく、息子さんも嫁と一緒に、嫁の里に逃げますよ。

母親は、よかれと思って息子夫婦にアクセスしていると主張するが、息子夫婦、特に嫁には辛い。
よくあるというか、こういうミスマッチを欠く親子の方が少ない。

渡る世間は鬼ばかりの特別最新版にも出てくる。
泉ピン子演じる姑は、妊娠した嫁の世話と称して息子のところに日参しようとする。
嫁はつらい。
つわりも自分ひとりならしのぐことができる。
そこに姑が現れたら地獄だ。
えなりかずき演じる息子は、角野卓造演じる父のところに母親に来るなと言ってくれと訪れる。
姑も舅の打ち明け話で、昨日の人生相談の如く説得され、自重するに至る。

哲学者の中島義道に聞くまでもなく、人の「善意」ほど暴力的なものはない。
家庭内紛争からの人傷沙汰に至るほとんどが、ここに起因する。
だから、避けられる方も、相談者やピン子のように、人の説得に改宗できればいいのだが、そううまくいかないことも多い。
自分は悪くないというのが、個人から、国家、国際紛争までの定番だ。

避けられたときは、さっさと身をひくのが大事であるのと同時に、こちらからも積極的に避けるべきときは避ける。
司法修習でおのぼりさんで、オヤジ狩りに逢いかけた。
偶然に歩いた街角ゆえ、故事来歴や過去からの因果はない。
芋っぽい中年が、おのぼりさん風が歩いているというのが、被害者学的弱点だったのだろう。

こんなことも、遠目に風景を読めば、避けるがよしだった。
このところ、人の無意識を読むのを常としているので、さっさと避ける方針にしている。

もちろん、真摯な呼び掛けに呼応するのは、己の道徳というか、作法ともわきまえ、情報収集上のリアリズムとしてもneutralにしているが、幸か不幸かそういうハムレット的状況にはほとんど遭遇しない。

思えば、江戸時代も今もさほど変わらない。
すれ違うに、竹光に手をかける必要は常にある。
平常心、バランス感覚が大事である。

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