2016年12月2日金曜日

責められること責めること

昨日のテレフォン人生相談は、70歳前後だったか老母と40過ぎの娘の相克である。

育てられ方に不満をもったアラフォーの娘から、母親に毎日のように電話がかかり、長時間怨嗟の言葉が繰り返されるという。

MCの加藤諦三氏と回答者の女性弁護士は、養育時の母親の愛情欠如が原因だから、いまその補填をすべきとの強い勧めであった。
相談者は説得され、そうしてみると終わった。

このような答えもひとつの見識だが、微妙だ。
わが見解は、このような答は十分に吟味しないと危ういと考えている。

子育ては、絶対に毒親をまぬがれさせない。
やらなければネグレクト、やりすぎると過干渉。
失敗をしないと必ず後に失敗が生まれる。
そうなると、苦労をさせたと言っては不満が生まれ、失敗させなかったと言って不満が生まれる。
人間の子育ての特性、悲しい性である。

この娘も、人の親である。
アラフォーで母親に子供の頃の不満をぶつけのうのう暮らしている姿は、再び孫の養育不全を生む。
このような機能不全の再生産が、問題解決と考えるような助言には強い疑問を禁じ得ない。

自分自身 、子に責められるべき諸点のあったという自覚はあり、実際に強く責められもした。
わが身近にも、この人生相談のような怨嗟電話を受け続けた係累や知己もすくなからず居る。

そのときにすべきことは、さはさりながらいま可能なのは、われを反面教師にわが轍を踏まず君の人生を全うせよという対応である。
それで負の連鎖が切ることができるかどうか不明であるが、それがbest effortであろう。

責める責められるは、親子夫婦知人等の個人だけでなく、組織や国家に至るまで普遍的である。
この時代、なんとかかんとか日本死ねではないが、指弾の口調を安易に繰り返し、それをもてはやす人々も少なくない。
しかし、それゆえそういった指弾が己にブーメランで帰ることを意識しない放埒なさが目立つ。
死すべきと称する集団を自らも一部として構成し、それを改善するbest effortからはほど遠い汚言症で下品と無能を全開させる親は子からバカ親サッサとくたばれの罵声をまぬがれることができるだろうか?

守るも責めるも、そう容易でない時代ではある。

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