2017年2月8日水曜日

何十億年からの本能

犬息子は、ともすると脱走しようとする。
昔、この厳寒の時期に脱走した。
太い道を渡り、道の向こうで騒いでいたのを発見して、大過をまぬがれた。

この「成功体験」があるので、いまもともすると雪山を乗り越えた同じ場所に来ると、挙動が脱走モードになる。
いまは怒らず、これをデフォにリードを引き締めることにしている。
養老先生も、殺せずペット化した研究室のマウスが仰向けに餌や水を摂るようになった後に、ある日脱走してえらく遠くに逃げた話を書いておられた。

これは人も同じである。
思想の右や左もあるが、もっとベーシックに人は同じく豹変する。
「真面目」な公務員や会社員が、酔ってなどのことが多いが、自制が取れると豹変する。
抑圧する分が多いだけ、羽目を外すと危ない。

ある意味、その理由は簡単である。
「真面目」な人ほど、ポリコレに忠実に日常生活をこなす。
その分だけ内心のマグマは熱くなり、飲酒その他の抑制解放で、露骨な「悪事」として開花する。

左右の極端人士なら、あいつ、あいつらなら、ああしそう、こうしそうは予想しやすい。
また、犯罪性向のある者は、プロファイリングなどで手口や発想は予想できる。
そういう類型の見えにくい「真面目」派は、えっあの人が⁉ となりがちだ。

中枢の反応はこうだが、細胞や組織はもっと複雑で反応は速い。
作ってはつぶし、どんどんと己の構成要素を廃棄する。
福岡博士や養老先生が紹介するシェーンハイマーのラジオオートグラフィーから、先般のノーベル賞のオートファジーに至るまで、msecの単位で激しく交錯するミクロの世界は、こんなゆるりとした中枢のアンビバレンシーに関係なく組合せをtryする。

まさにウイルスや植物といった存在との交易を、ただただ繰り返す。
これは、何十億年前からの栄々たる歴史そのものである。

という事で、犬息子の脱走念慮も、ネット知己の、あるいは通りすがりの人々の言動も、ただただそのものとして見ていくこととする。
もちろん、自分のありようも、、、。
特に己が養老先生のいう「自分の壁」があるだけに、冷徹に見つめることは至難だが、、、、。

0 件のコメント:

コメントを投稿