2015年10月6日火曜日

有縁無縁

ノーベル賞、聞こえていた下馬評外れ。
へそ曲がりゆえ、ノーベル賞もOlympicもワイのワイのいうタイプではないのだが、知識社会学的には興味をもって居る。

その所見はああでもないこうでもないとやらかす余裕はないが、一言いうと、下馬評より今回のような受賞は味があっていい。

さて、イントロも短くなった。
手短は自分でも好きだ。

別にイントロに戻る訳ではないが、ノーベル賞は死人は貰えない。
この賞に縁あろうとすれば、貰える程度に長命である必要がある。
授賞決定されて授賞式までに急逝されるようなケースはどうなるか?
知らず。

つまりこれは知識や時間との縁の問題。
トリビア、例外、蘊蓄に励めば、そういう知識は貯まるが、貴重な時間はどんどん消費されてしまう。
知識との有縁無縁もgateをしっかりしておかないとライフスタイルを誤る。

ところでプロファイリングから人にまなぶ、真贋鑑別心眼鍛練に移ることに方針転換した。
まず好き嫌いや批判は置いて、適度な傾聴に重点を置く。
適度な時間管理、ストレス調整、落語を聴いたり漫談を楽しむ程度のhumorの余裕があれば、自分の生理的嫌悪や思考バイアス、その他を越えてハンドリング可。
もちろん、SNSで図々しくもスパイするために「友達」申請してきたり、スパムが飛んでくることもあるので、そういうのは上手に身をかわす。

最近の自分の傾向は、自分より高齢の知己も、たまに構いにいこうかなと思うことあれど、難しい面あり、言ってこない限り、いじらなくなってきている。
若いひとも構ってみて、いま自分が年上に感じる面倒さを感じさせるのも、なんだかなあと思うので、距離を取ることにしている。
また、変に甘えられても、そういうのはあまり好きでないので、そういう意味でも距離とり気味だ。
年関係なく、企画振ってみてダメそうな方々、組織、それはマッチングよくないんだねということで、これも早々に見切る。

いろいろとあるが、有縁でよかったこと悪かったこと、無縁でよかったこと悪かったこと、紙一重で微妙。
鴎外の「雁」で示唆的な、下宿の料理にさばの味噌煮が出ることで、人生は大きく変わる。
忸怩たる人生をいきながらえてきた自覚はあれど、まだ棄てたもんじゃない。

ゲームセットまで有縁無縁をアプリシエイトする。
後のことも気にする方だから、それも気にしながら。

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