2015年10月2日金曜日

変化の中を生きる

SNSで医療者知己の「特養増設計画に問題あり」と銘打ったネット医療ニュースの紹介を読んでみた。
久しくその会社のサイトに入るIDやパスワードを忘れていたので、ああでもないこうでもないと探して、やっとこ入った。
特にどうしてというニュアンスが読み取れなかったので、どの点が問題とお考えか?と知己のコメント欄に書き込んだが、時差がありすぎたのか教示は受けていない。

ところで、さきほど嵐のような天気の中で立ち寄った喫茶店で、これからの特養に限らぬ介護や医療のresourceの難問について書かれている地元紙の記事を見つけた。
郡部の施設は、過疎化で施設に空きが出てきて維持が困難で、都会から利用者にきてもらって何とか維持を図りたいと動いているといった話。

むべなるかな。
いまはこうだけれど、これからの流れで必ずこうなりそうという、実際にこうなっているという急峻な流れは、いまの時点でみえみえ。
同時に、そうなれば、人々はどうするだろうこうするだろう、いやそんなことはせず、逆にこう動くだろう。
きっとこうならざるを得ないという動きと、不確定要素で逆になってもおかしくない可能性と。
国や地方公共団体も、財政的に余裕があってやっているわけではないから、無い袖は振れないと、潰えるものはしようがないと腹をくくっているかの本音が見え隠れするところもある。

特に、たとえば田舎が必死で都会から人を呼び込もうとしても、実際にどの程度都会の行政や当事者とマッチングがうまくいくか?
もちろん、やってみないとわからないところがてんこもり。

また、ときが過ぎ、田舎にせよ都会にせよ、箱ものもマンパワーも余るとなれば、手仕舞の準備というか、縮小の算段をしつつ動かなければならない。
そういう事業の難しさは医療や介護に限らないが、上手にやらないと大変だ。

そういうことを思いながら、新聞を読み、お茶をのみ終えた。
外の雨の風景も転々と変わるのが見える。
こういう時代に生きているのだという実感をより強くした、嵐の日。

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