2015年10月4日日曜日

便りのないのはよい便り?

プロファイリングについて延々と考え続けている。
プロファイリングに相対性原理、観測問題を意識すれば、相手のことだけでなく、プロファイリングをしようとする己のこともしっかりと腑分けして総合せねばならぬ、というところまではきた。

ところで、このところの情報社会、溢れんばかりの情報が押し寄せて来るが、その処理が難しい。

わが現phaseでは、情報の間口を狭め、玉石混淆真偽不明の交通整理に腐心している。
難しいのは、そこいら辺りが容易でないことだ。
定点観察して、やっとこわかるとことがほとんどだ。
最後の最後まで得心しがたいケースもある。

長時間をかけて、玉ねぎの皮剥きではないが、結局空っぽだったのかとわかることもある。

また、人生は一度で短い。
結婚だ、親子だ、自分の故事来歴だとなると、棺桶に片足を突っ込んでやっとあぶり出しのように関係性が見えてくることもある。

長いイントロになったが、あまり賑やかに構いに行かないで情報を吟味しているときに、便りのないのはよい便り?かと自問してみる。

死にかけてる、死んだなどと必ず伝わってくるだろう関係ならば、それは当たっているだろう。
究極のそれは亭主元気で留守がいいだ。

もちろん、そうでないこともある。
特に災害や、平時でも失踪などで、連絡も絶えて、実は無明の向こうでは、こんな悲劇、無惨ということもありうるので 、この諺言も必ずしもこう言い切れるわけでもない。

そういうことも踏まえながら、それでもしっかり生きているらしきことはわかっているが、連絡がない。
これはご縁がなくてそれでめでたいのだな。
こちらもその方が楽だ。
そういうところがいまのところ実に快い。

0 件のコメント:

コメントを投稿