2015年7月15日水曜日

うがい手水に身を清め~♪

というほどに居住まいを正しての作業ではない。

ちょっと変わったコーヒー味、新ボスから慫慂された純粋理性批判論の準備、心覚えである。

まともな人なら、自己懐疑は常である。
こんなものは人様から教わらなくとも、まともなセンスを持っていれば、徐々に身に付くのが当たり前のことである。

なぜなら、間違うのが人の常。
別にホモサピエンスでなくとも、動植物でも学習はする。
失敗成功で、この世界の環境、そんな大げさでなくとも、身の回りに持つべきセンスの改変を迫られること、日々のごとくである。

今朝の勤行は、ちと有名になった人々の、これらのエピソードを羅列してみたい。
もちろん、その失敗を含めてだ。

ソクラテス。
汝自身を知れ、無知の知。
しかし、クサンチッペの意味論は死ぬまで悟ることを得ず、毒盃を飲み干したのも、哲学よりも、このにょしょうと別れるためではなかったか。

プラトンのイデア論。
これも外の祖型は見事だが、自己像自画像については見えない。
自分もイデアに羈束されるワンノブゼムと見抜ければ、すごいことではあるものの、そうした形跡はみえないように思う。

哲学に科学者を挟み込んでニュートン。
ニュートン力学は、整然とした体系とされるが、ご本尊は山師、錬金術師、税務署役人で、別にニュートン力学で描かれるような人ではない。

フランス人のデカルトは、「われ思うゆえにわれあり」とし、パスカルは人間を「考える葦」と見抜いた。
駄菓子菓子、このように中心を己に持ってきたことこそ、ある意味で自信のなさであるようにも思える。
思えばしっかり自分があるのなら、そう力んであげつらわなくともそれは自明、考える葦というのも風に吹き飛ばされそうに頼りなく翻弄されつつ、最後に根を下ろしているのだという表現であり、ある意味、己の頼りなさを必死であからさまにしているようにも見える。

ドイツのカント。
毎日時計のようにきっちりと散歩しながら「純粋理性」について大部の著書をものした。
しかし、毎日時計のような正確さで散歩したとして、その時計が狂わずに動いているというのは、どうして腑に落ちたのだろうか。
純粋理性などというのは、時計と同じで正確な時を刻んでいるのかどうか眉唾のように思える。

私は弁証法的なになにというのを好きではないが、ヘーゲルのワルツのような、ぶんちゃっちゃ、ぶんちゃっちゃ、正反合のワルツはわかりやすいと思うし、存在するものは合理的と喝破する剛力にさすがとは思う。

しかし、史的唯物論のマルクスは、初期の「経哲手稿」で、愛が愛を呼ばねば不幸というような非常にロマンチックなことを述べ、その割にエンゲルスに愛の不始末の尻拭いをしてもらうなど、やはり己、芯のところは、ただのズブズブおやじだ。

マックスウエーバーの講壇禁欲も、ヴィトゲンシュタインの語りうることだけが語りうるといった一見陳腐なトートロジー風にもみえる分析哲学も、知的謙抑には適すれど、やはり己は頼りないというパラダイムのごとく感じもできる。

斯くして、人は皆、あたかもテン狂院の住人のごとく、養老翁が指摘されるように、郊外に10万冊もの在庫をもつ巨大書店は、あたかもテン狂院に飛び交う妄言の留め置き所のようなものではある。

それでは人は、理性や悟性やインテリジェンスは持てないのか?
そんなことはない。
逆に、人々は、彼我の心の異同に十分に関心を持ち、政治経済だけでなく、文化、文明の大きなところにインテリジェンス、つまり調査、比較、忖度、攻撃、収奪と、光と影をコントラストさせながら、わかってきてはいるのだ。

そうとならば、それを続けるにしくはない。
結局は養老師のいわれるように、他人の心に思いをはせるインテリジェンス。
そこに、ノンリケット(真偽不明)のときに暫定的な正義を建てる司法という作業を加味していけば、漸進的に悲劇をそぎ落として行ける。
そういう考え方が、一応進歩主義的保守思想としてあり得たのではないか?

それが、国際化の波で、ブルータルな先祖返りを示しているようにもみえる。
超近代、つまり現代軍事は、オーバーキルどころか、かえってそれら能力によって、動きのとれない膠着状態を作っているかのごとくである。
その中で、デスペレートなアクティングアウトが、もう堪えられないという人々のアジテーションや破壊活動を盛り上げてもいる。

ここで件名に戻り、うがい手水に身を清め、さて頼りない各人の己を抱えつつ、フラフラとどうインテリジェンスを活用させていくか。
昨今の情勢をみると、実にむつかしいと感じざるを得ないが、哲学者たちが言ってきたように「ここがロードスだ。ここで跳べ」ということで、ゆでガエルにならぬよう、逆につまらぬ鉄砲玉にならぬよう、しっかりとインテリジェンスを涵養したい。

つまりは、阿呆なる自分に半分気付きつつ、他人様に映るつくばのガマのごときおのが姿で、自分のプロファイリングをしっかり行い、自ら善用する修行を続けるというものだろうか?

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