2018年8月4日土曜日

午後の安逸

適宜な午睡後目覚める。
寝る前から流している「砂の器」。
専門学校や大学のcine-education で何十回いやもう一桁多いか、供覧してきた。

ある医療系専門学校では、singlemotherの学生さんが、ハンセン氏病を患いながら幼い子を抱えて放浪する父子の姿を見て、現在の自分を投影してしまったと感動を感想文に記してくれたことがあった。
十余年前のことだが、既にその時代に、映画で緒形拳演じる三木謙一巡査が、父親に説いた言葉が今の時代の反応を意識させた、「子供に病がうつったらどうする?それだけじゃない幼い子を今のままでいいとおもっちょんのか?」

確かにそれは虐待ということになる。
そういう注意喚起のコメントを講義に加えた覚えがある。

もうひとつ。
正義の怖さだ。
元巡査は、和賀英了となった秀夫に「なぜいま会えん等という?あんな思いした親子だよ。首に縄つけても連れていく来い。」
三重で秀夫の写真を見つけた三木は、急遽上京し、説得しようとする。

元巡査は、療養所で死ぬまでにもう一度あの子に会いたいという父に、あの子は賢い子だからきっと会いに来るに違いないと励まし続けてきた。

しかし、子だって事情がある。
下手すると迫害される身で、苦労の末新進音楽家和賀英了になっているのだ。
人の戸籍でなりすますのも原本不実記載という犯罪だが、殺人などに比べれば可愛いものだ。
それを己の正義感から無理くり紐つけてでも引っ張って行く来いの立ち居振舞いは、正義の脅迫ではある。
砂の器の謎を解いた丹波哲郎演ずる今西警部補は、相棒の森田健作演じる吉村刑事に「演奏中の彼はいま父親よ会っている。この形でしか彼は父と会えないのだ」と喝破する。

和賀英了がフィアンセに答えていわく「宿命とは生まれたこと、生きているということ」。
それを反芻すべく、またドラマを観る。

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